始まり

 

 ――その時の気持ちは、今思い出してみてもよく分からない。ただ僕が差し伸べた手を、彼女が握り締めていた。それだけの事実があって、他の、例えば感情だとか、状況だとか、そういうのは全部関係無かったのかもしれないのだ。
 彼女は綺麗だった。少なくとも見た目は。最新のファッションに身を包んでいて、顔には薄いメイクを施し、歩く街では振り返らない者がいないような、そんな女の子だった。
 彼女は噴水の縁に座っていた。どうということもなく座っていた。きっとその時は、客を待っていたのだろう。彼女は身体を売るか、盗むかするしか生きる術を知らなかった。だからきっと、待っていたんだと思う。簡単に金を出す、馬鹿な中年親父を。それも、仕事帰りに一杯ひっかけて、ほどよく酔っ払ったやつだ。もっともそれは彼ら独特の娯楽であって、僕たちが音楽だとか読書だとかにお金を費やすのと、そう変わらないのかも知れないが。
 彼女の手は白くて、冷たくて、柔らかかった。硬さのなくなった石膏のようだった。繊細で脆く、儚い。それは彼女の逞しくも愚かな人生観と、極めて対照的なもののように、僕には思えた。
 僕は彼女の手を牽いて自宅に戻った。1Kの安アパートだが、そこは僕が安らげる唯一の場所だった。実家には、もう帰ることはできない。
 彼女は僕のベッドに腰掛け、足を床につけたまま寝そべっていた。僕はキッチンで、遅い夕食を作り始めた。彼女はその様子を、寝そべったままで眺めていたようだ。その時の彼女は長い髪をシーツに広げ、デニムのジャケットは前を開いていて下からタートルネックのセーターが覗き、この寒いのにミニスカートで。そして均整の取れた細やかな肢体と、可憐な整った顔つき。なるほど、男なら誰もが魅力を感じる状況だったろう。
 僕はお気に入りのミスターチルドレンの「Everything(It's you)」を鼻歌で歌いながら、特製のトマトソースとシーフードのスパゲティを盛った皿をふたつ持って、彼女がいる部屋のテーブルに向かった。フォークとスプーンを揃えて彼女に勧めると、彼女は身を起こして床に座り、それを食べ始めた。
「おいしい」
 彼女はフォークを運んだ口を押さえ、驚いたようにそう言った。どことなく、息を飲む仕草にも似ていただろうか。彼女の食事マナーは最悪だったが、その時の僕はそれを咎めなかった。ただ微笑んで、彼女の食べる様子を見つめていた。
「君さ、帰るところはあるのかい?」
 僕が尋ねると、彼女は短く「ない」と答えた。それから少しだけ彼女に関することを質問してみたが、その答えはいずれも簡潔で、無愛想なものだった。食べるのに忙しかったのかもしれない。
 その時の話によると、彼女の名前は高野響子といい、実家には母と父、そして出来の良い姉がいるということだった。年齢は18。当時の僕よりひとつ下だった。両親に感謝しているのは、自分の優れた容姿に関してのみだという。大した自信家だと思いかけた僕だったが、そこに烈しい痛みがあることに、その直後に気付いた。
 食べ終わると、彼女は眠くなったと言った。風呂を貸し、パジャマも僕のものを貸してやった。下着の替えは持っていたらしい。彼女は喜んで風呂に向かい、たっぷり45分かけてから出てきた。その上気した桃色の頬は、若さのためだろうか、化粧をしていたときよりも華やかに思えた。
 ベッドも僕のを使わせた。僕はソファで毛布を被って寝るつもりだった。彼女はベッドに入るとすぐに安らかな寝息を立て始めた。僕はその傍らで、コンピュータを使って曲作りに没頭した。僕はアマチュアバンドのキーボードを担当していた。
 3時間ほど経った真夜中、一曲ようやく作り終えてホットコーヒーを飲んでいた僕に、目を覚ました彼女が声をかけた。
「夜にコーヒー飲むと、寝れなくなるわよ」
 僕は驚いて、コーヒーを吹き出しそうになった。なんとかこらえて背後のベッドを振り返ると、彼女は意外にも眠そうな目はしていなくて、僕をひたと見据えていた。
「目が覚めたのかい?」
「ええ。なんだかキーボードの音がうるさくて」
「はは。それは申し訳ない」
 この時のキーボードとは、もちろん楽器のことではなく、パソコンのそれのことだったのだが。
「それで、何をしたの?」
 心なしか、さっきの食事時よりも、彼女の口調は和らいだようだった。僕が音楽を作っていたことを話すと、彼女は興味を持ったのか、ゆっくりとベッドから出て、ディスプレイに表示されている譜面を覗き込んだ。マウスを渡して作り方を教えてやると、彼女は嬉しそうに簡単な曲作りを始めた。
 30分ほど経って、本当に簡単な、単純なメロディーが出来上がった。主旋律がピアノで、副旋律にトライアングルを配した、それは単調だけど純粋さが胸を打つような、そんな素朴なメロディーだった。僕たちはそれに、瞳を閉じて聴き入った。
 その夜はその後、僕と彼女、ふたりの作ったふたつの曲をハードディスクに保存し、パソコンの電源を切って終了した。
 それが、ふたりの帰るところを失った者同士の奇妙な共同生活と、僕たちのバンドの躍進の始まりだったのだ。

________closed.