大丈夫か?

 

 どのような場所であろうと、そこに相応しいものとそうでないものとがある。例えば電器屋の一角には電子レンジが相応しく、花屋の店先には薔薇の花が相応しい。これが逆になると、人は違和感を覚えることとなる。ほぼ例外無く。これは人間についても同じことで、宮殿には貴婦人が、スラム街にはみすぼらしい不法占拠者が、警察には警官が相応しい。場違いな存在、異物は排除されるのが常だ。
 なんてことをわざわざ考えたわけではなかったが。
「ねえ」
 斎木裕一は、自分の服の袖が引っ張られるのを感じた。声をかけた上に彼をその手でも引きとめるのは、彼と同じ高校の制服に身を包んだ少女だった。名は日下芽衣。染めた茶色い髪を肩まで垂らした、最近ではどこでも見かけるような姿の少女。お約束どおりスカートの丈は短く、靴下はルーズソックスだ。いつまでもしぶとく世に存在し続けるその靴下に、彼はマンネリを感じずにはいられない。率直に言うと、嫌いである。
「なんだよ」
 通り過ぎようとした四辻だった。裕一は不機嫌そうな声を出した。できるだけ無愛想に見えるように、眉間に皺を寄せて。
 彼は彼で、袖をつかむ少女と同じように、髪を染めたどこにでもいそうな少年である。特に目的も無く学校に通い、夢や目標があるわけでもないのに、社会の体制に合わせてとりあえず大学受験に向けての勉強に勤しむ、そんな少年だ。
「なんだろ、あれ」
「あ?」
 曖昧に、ほとんど反射的に声を出して、裕一は芽衣の指差す方向を見――そして硬直した。
 視線の先に、パンダがいた。巨大なパンダが。手に持った笹を貪っている。容赦無く貪っている。地面に両脚を投げ出して座り、貪っている。
「……パンダって、あんな風に笹食うんだな」
「言うのはそこなの?」
 動揺しないのは、単に神経が太いのか、あるいはこういった事態に慣れているのか――まず間違いなく前者だろうが。ともかくふたりはパンダが笹を喰らうのを、最後まで観察した。
「うお。すげえな、茎まで食ったぞ」
「ゴリラは笹を握りつぶすって言うわよ」
「関係あるのか?」
「見て、食べ終わって眠そうにしてる。かわいい!」
 パンダは妙に人間くさい仕草で手を舐め――笹の汁だかなんだかが手に付くとも思えないが――、数度でんぐり返りをしてみせた。愛玩動物というにはその体躯は巨大すぎるが、それでも芽衣は手を叩いて喜んだ。パンダは拍手の音に気付いたのか、こちらに目を向けてくる。そして、ありえないことだが、少女の拍手に気を良くしたように、さらにでんぐり返りを繰り返した。
 芽衣は目をとろんとさせ、パンダに向かって歩き出した。足取りも瞳の焦点も、どこか合っていない。手は胸の前で祈るようにして組んでいる。
「おい、おいおいおいおい」
 肩を掴むが、芽衣は止まらない。どこにそんな力があったのか、裕一を引きずって歩いている。
(嘘だろ!?)
 裕一を引きずったまま、芽衣はパンダの前まで来た。パンダは嬉しそうに手を打っている。そうしてから、のっそりと立ち上がった。背は屈めているが、その体長は軽く2メートルを越えている。
「うげえ」
 芽衣の腰にしがみついたままでパンダを見上げ、裕一はうめいた。こうして見ると、可愛いというよりは不気味である。パンダはゆっくりとした挙動で、芽衣の肩に前足を載せた。
「何する気だよ!?」
 手を離して立ち上がり、裕一が身構えて叫ぶ。パンダは一瞬彼に目を向けたが、すぐにそれを芽衣に戻した。相変わらず呆けている芽衣の、その胴に腕を巻きつける。そのままひょいと彼女を肩に抱き上げて、パンダは背を向けた。走り出す。
「え? おい、え?」
 混乱して、裕一が意味も無く左右を見回す。
「ちょ、ちょっと待たんかーい!」
 叫んで、裕一は駆け出した。

 パンダは速かった。広いストライドで、どすどすと道を駆けていく。往来する人々は、その異様な動物に反射的に道を開けていた。我が物顔で、パンダが駆ける。そしてその後を裕一が追う。
「なんで、パンダが、二本足で走るんだよ!」
 どうしようもなく理不尽だとしか思えなかったが。しかし芽衣が攫われていくのを黙って見ているわけにもいかず、裕一は悪態を吐きながら追いかけた。普段それほど運動もしていないせいか、すぐに息が上がる。対してパンダは、無闇に元気だった。全く速度を落とさずに、どすどすと走っている。
 ぜいぜいと息を切らして追いかける裕一の視界に、自転車が入った。ハンドルを握った主婦らしき女が、パンダを唖然として眺めている。
「すいません、ちょっと借ります!」
 すれ違いざまにハンドルを掴み、強引に奪い取る。罵声が聞こえたが、あとで絶対返しますからと叫んで勝手に了承を得たことにした。構っている場合ではない。
 がしゃこがしゃこと立ちこぎでペダルを踏み込む。あまり良い自転車とは言えなかったが、この際贅沢は言っていられない。
「待ぁぁぁぁぁてぇぇぇぇっ!」
 その声に、パンダが慌てて振り向いた。びくっと肩を竦め、スピードを上げる。だがやはり自転車には敵わず、差が徐々に縮まっていく。
 パンダは大通りに出ることはなく、自動車の少ない道を選んでいるようだった。自動車は、逃げるには邪魔だからだろう。更にしょっちゅう辻を曲がり、裕一の視界から姿を消す。
「まくつもりか!? だったらこっちにも考えがあるぞ!」
 叫んで、裕一は方向転換をした。頭の中に広げた街の地図の中の、パンダの選びそうな道をなぞっていく。この街は裕一が生まれ育った街だ。パンダよりは地理に詳しいつもりである。
 必死でここと決めたポイントに向かう。到着して自転車を降り、待ち構えていると、目の前にパンダが飛び出してきた。会心の笑みを浮かべて、裕一はパンダの足を払った。
「うおおおっ!?」
 あろうことか日本語で叫んで、パンダが派手に転倒する。芽衣が投げ出された。慌てて受け止めようとするが、少女は裕一の2歩ほど前に落下した。
「あ」
 数メートル転がって、芽衣が止まる。頭をかいて、裕一はとりあえずパンダを見た。
 頭が取れていた。少し先に転がっている。パンダの首からは、褐色で脂ぎった、禿頭の男の顔が覗いていた。裕一はその前に立ち、目を回している男の顔面を足の甲で蹴りつけた。
「ぶほっ!」
 鼻血を噴出して、男が叫ぶ。
「何をする!?」
「やかましいわっ! ハゲ!」
 胸倉を掴んで、パンダ――いや、男をがくがくと揺さぶる。パンダの着ぐるみは、なんだか柔らかかった。
「てめえ一体何のつもりだ! 白昼堂々誘拐未遂かコラ!」
「ま、待て、待て。落ち着け。これには深い事情があるのだ」
 パンダの手でなだめる仕草をし、男が鼻血をだくだくと流しながら訥々と語りだす。
「あれは3年前のことだった――」
「あまつさえ回想するのか」
「うむ。そう、3年前、私はある研究機関で局地戦用の戦闘スーツの開発をしていた」
「ほほう」
「で、このパンダスーツが完成した」
「どういう経緯でパンダになったんだか、そこんとこを詳しく説明してもらおうか」
「うむ。つまり女性に人気だったのだ」
「……なんで戦闘スーツに人気が要るんだ」
「なぜかスーツは売れず、私はクビになった」
 遠い目をして、男は空を見上げた。つられて裕一も見上げる。視界に芽衣の顔が現れた。
「うお」
「うおじゃないわよ。なんか痛いんだけど。何なの? 誰よそのおっさん。変態?」
「だいたいそんなとこだ」
「断じて違う!」
 裕一に胸倉を掴まれたままで、男は首をぶんぶんと振って否定した。汗が飛び散る。裕一と芽衣が嫌そうな顔をした。
「確か、変態に人権は無いって憲法に書いてあったよね」
「ああ。中学の公民で習ったよな」
「なにを捏造しとるか。偽の憲法を捻出するでない。犯罪にも等しいぞ」
「お前が言うか?」
 細めた目で睨まれ、男は目を逸らした。鼻血が流れている。心臓の拍動に合わせて量が増減するのが、少し面白かった。
「で、なんで芽衣を攫おうとした?」
「うむ。実験のためであった」
「実験?」
「うむ。『女の子洗脳電波でウッハウハ☆大作戦』である」
「芽衣、110番だ」
「うん」
「待て待て待て待て。いいか、局地戦では敵を洗脳するということは非常に重要なのだ」
「局地戦に洗脳するだけの時間があるのか。女もいるのか」
「そんなことは問題ではない。問題は、いかに女の子を我が虜とするかだ」
 必死な顔で説明する男の胸倉を、裕一は離した。勢いよく後頭部を地面にぶつけ、男が目を回す。その隙に、芽衣は携帯電話を取り出しで110番をプッシュした。奇跡的に、携帯電話は無傷だった。
「で、なんで痛いの? あたし」
「あー。ああ、そう、こいつのせいだ。主に。おおむね」
 間抜けな顔で気絶している男の顔を指差す。芽衣がローファーのつま先を、男の鼻っ面に差し込んだ。ヘッドスピードはかなり出ていただろう。
「ふごおあっ!?」
 鼻血の勢いが増した。男は目を見開き、そして呟いた。
「おお……白か」
「死ねぇぇぇぇぇ!」
 5秒間に芽衣のローファーが14回、男の鼻に炸裂した。
「おい、大丈夫か? 死んでないか?」
「うむ。全然平気である気がする」
 うめいて、男は気絶した。鼻をへこませて、幸せそうな顔で。
 爽やかな風が吹きぬけた。

________closed.