それだけは勘弁してください

 

 夜空に幾つもの火の筋が描かれていた。描かれては消え、描かれては消え。それはまるで、流星が地上から空へと昇っていっているようだった。弧の軌跡を辿って、星空に吸い込まれていく流星。幻想的と言うには少々味気無いが、それでもその光景は人々の心をとらえて離さなかった。
 流星の正体は松明だ。明々と焚かれた松明が、空へと打ち上げられる。炎は夜気に尾を引いて、高々と舞い上がった。闇を彩る朱色が、妖しく輝いては消える。
 残暑の厳しい、9月の頭だった。毎年この時期に行われる、燎の祭り。元々は松明の燃え方や飛んだ方向で豊凶を占うものだったそうだが、今ではそんな意味は失われ、夜の美しい催し物とたくさんの屋台が揃った、民の憩いの時となっている。もっとも、屋台稼業を営む者たちにとっては、そうしょっちゅうあるわけでもない稼ぎ時であり、憩う暇などありはしないかもしれないが。
 彼はその祭りを眺めていた。松明の打ち上げ場所である街の広場から、ほど近い土手の斜面。雑草の茂るそこに、彼は座っている。着ているのは浴衣だ。祭りといっても浴衣を着る男はそんなに多くはなかったが、彼は毎年それを着ることにしていた。
 松明がまたひとつ、空へと消えてゆく。昔、彼がまだ子供だったころ、彼の家の近所に独り暮らしの風変わりな男がいた。彼はいつからか、その男の家に通うようになった。男はいろんな知識を持っていて、彼はそれらについての話を聞くのがとても好きだった。中でも北欧の神話についての話は彼の興味を強く引いた。彼はスルトが放った炎が、この街の空に燃えているのだと信じた。スルトが四方に放ったという炎と、定められた方向性の無い松明の炎とが、どことなく似ていたからかもしれない。
 その男は、彼が中学校に入学するのとほぼ同時期に、街を出て行った。多くを語らず、彼には「またそのうち、会えることもあるかもな」とだけ言って。彼の人格形成にすら影響を及ぼしたこの男に、彼は二度と会うことはないだろうと思っていた。
 空へ手を伸ばしてみると、星々の合間を縫うように駆ける炎を掴めるような気がした。捕まえた炎は彼の中に入り込み、胸をチリチリと焦がした。血管を通って、彼の全身を灼き尽くす。熱は彼を急かした。早く早くと、いくら急いでも許してはくれなかった。
 ――何を急かされていたのだろう?
 土手に座って、彼は思い出せなかった。あの男を追うこと? あらゆる知識を手に入れること? それとも、炎に灼かれて悶え死ぬことだろうか?
 分からない。確かにあの頃は、何かを必死に求めていたはずだ。だがそれが何だったか、全く思い出せなかった。情熱とかいう名の、安っぽい青春の台本だったろうか?
 仰向けに寝転んでみると、草の含んだ水気が背中に心地よかった。浴衣が湿ってしまうが、起き上がれば直に乾くだろう。夏の間に陽の光を存分に浴びた草は、土と一緒になってむせ返るような瑞々しい香気を放っていた。
「冷たくない?」
 隣から、声がかかった。彼は大丈夫とだけ答え、瞳を閉じた。頭の下で組んだ手にも、露が付いて冷たかった。空の高いところで流れる風と、打ち上げられて燃える炎の音が絡まり、轟々と彼の鼓膜を震わせた。そしてその合間に、よく通る声が忍び込む。
「君は、いつも難しい顔をしているね」
 片目だけを開いて、彼は隣を見つめた。艶やかな黒瞳が、夜の闇を映して微笑んでいる。あるいは闇を映しているから黒いのかもしれない。彼は夜にしかその瞳を見たことがなかったので、どちらとも言えなかった。
 またひとつ、炎が夜を裂いた。松明は短く、だから地上に戻る前に燃え尽きてしまう。本物の流星のように、その命は儚い。
「誰かのことを考えているのかな?」
 答えず、彼は嘆息して再び目を閉じた。夜気はしんと冷え、下駄の素足をさらりと撫でていく。瞼を下ろしても見える、網膜に焼きついた炎を、彼は指でなぞってみた。それは仄かに温かく、スルトの炎とは似ても似つかない。
「過去、出会った人たちというのは、大抵が君に影響を与えているだろう」
 こちらが何も言わぬうちに、その小さな声は、しかし炎と風をうまくかわして彼の耳に辿りついた。例えるなら、温もりのあるコンクリートの壁がいい。そう思って、彼は自分の幼稚な比喩に苦笑した。
「出会って、関わり合わない人間なんていない。君が誰のことを考えているのかはわからないけれど、そんなに長いということは、相当印象的な人物だったんだろうね」
 印象的という言葉は、あの男には当てはまるような当てはまらないような、微妙なところだろうと彼は思った。彼にとっては確かに印象的であり、魅力的であったが、彼以外の全ての人間にとっては、あの男はつまらない、無関心という関心の対象だったと思う。男の顔を思い出そうとし、うまくそれが出来なくて、彼は少し苛立った。
 隣で色々と喋っているのは、実は彼の親友である。といっても一般的な「友達」とは違う。普段から常に一緒にいるわけではないし、どこかに連れ立って出かけるということもしたことがない。だが、どこかに共鳴するものがあった。性格も好みも全く違うが、話しているととても落ち着く。そんな間柄だ。話が合うとか合わないとか、そんな次元ではない。
 彼は身を起こし、濡れた背中を少し擦った。そしてあの男のことを話した。広場で燃える炎と、空に揚がる炎とを見つめて。風はいつの間にか止んでいた。彼が話し終わると、隣の親友が静かに口を開いた。
「まるで、温もりのあるコンクリートの壁だね」
 さすがに驚いた。そうか、こいつはあの男に似てるのか。だから俺はこいつのことを、こんなに気に入るんだ。ひとりで納得して、彼は立ち上がった。腰に手を当て、背筋を伸ばす。見上げた星空に、炎がひとすじ通った。振り返ると、相変わらずの深い闇色の瞳が見返していた。その口が、小さく開く。
「ねえ、君は――」

 瞼を上げると、白い天井が見えた。軽薄なまでに白い、薄い天井。見慣れた光景。見飽きた光景だ。
 聞こえるのは、停滞した空気の音だけだった。視界の隅に女の泣き顔があるが、声は聞こえない。確か、あれは母親だ。みっともなく人前で取り乱し、痴態を晒す彼の母親。目を背け、彼は自分の真上を見つめる。
 あの後、あいつは何と言った?
 記憶の糸は、手繰ろうとすればするほど絡まっていった。すぐそこに見えていたはずのものが、さっと霧に隠されてしまう。手の届く場所にあったはずの物が、無限に遠ざかっていく。
 静脈洞血栓。脳静脈の閉塞により、末梢部に鬱血が生じている。すでに脳細胞は壊死を始めていた。そのせいか、記憶がどんどん磨り減っていく。痴呆症患者とそう変わらない。思い出せることは、もう随分と限られてしまっていた。
 瞼を下ろす。網膜に映るのは、炎の筋だった。深遠の闇を切り裂く、紅色の炎。黒より黒い闇と、紅より紅い炎。どこで見た光景だったか、思い出せない。
 耳元で風の音がした。どこかで聞いた音。懐かしい音のような気がする。感覚が思い出しているのに、そこに記憶は無かった。寂しいと思うことはなかった。それすらも、忘れてしまったのかもしれない。とても大事なものを、忘れていく。そんな気がした。それはとても恐ろしいことに思えた。闇、炎、風――
 不意に、瞼の裏に甦る顔があった。白磁のように白い、繊細な肌。薄い唇。長くはない髪。そして闇を映した、艶やかな黒瞳。その小さな口が開き、言葉を吐き出した。
「ねえ、君は今までの出会いを、後悔したことはある?」
 ――そんな無意味なことを、俺がするはずないだろう。感謝こそすれ、な。
 彼が答えると、その顔は満足げに柔らかく微笑み、背を向けて去っていった。それと同時に、彼の意識は闇に堕ちた。闇の中で炎が疾っていた。

________closed.