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 暗闇の中で炎がちらついている。墨を流したような暗黒にあって、揺らめく熾熱の力だけが存在を許されているようにも見える。だが闇は、頼りなく揺れる炎の光をいまにも飲み込まんとしていた。黒の中に、鮮やかというよりはやや昏い赤が小さく、不確かに蠢く。……やがてその淡い光に照らし出される何かが現れた。人の顔。それは炎を見下ろし、薄い唇の両端を吊り上げた。顎の横まで垂れた髪が揺れる。
 にわかに、炎が強まる。その明かりに照らされて、その場の様子が少しだが観察できるようなった。炎は、禍々しい姿の燭台に刺さった長い蝋燭に灯っているようだ。燭台は石製の卓に置かれていた。不可解な紫の金属光沢を放ち、それは30センチメートルはあとうかという蝋燭を支えている。蝋は白く、涙腺から溢れる涙のように溶けた我が身を流している。蝋受けに落ちたその残骸は透明で、蝋の足元に少しずつ溜まりつつあった。
 室内には卓の他に、古ぼけた木製の椅子、どう見ても大人の男の体重には耐えられそうに無い寝台、インク壺、それに浸けたばかりなのか、黒い液体を付着させた羽ペン、安物と見て取れる羊皮紙、傾いた本棚などがあった。そのどれを動かしても室そのものが崩壊してしまいそうな、危ういバランス。羊皮紙には繊維にペン先がひっかかったのか、ところどころで撥ねた文字が記されていた。
 淀んだ空気の中、炎とそれに熱せられた空気以外の動きが生まれた。永く炎を見つめていた人物が立ち上がったのだ。その者は薄く埃の積もった床を歩き、室の扉へと向かった。その足の動きに合わせ、埃が僅かに舞う。扉は閉じられ、室には燃え続ける炎が残された。

 王都の空は今日も晴れ渡り、女たちは煉瓦造りの街並みに多くの洗濯物をはためかせるべく、用意を始めていた。レベッカ・ストラシァも周囲の家に住む女たちと同じく、二階建ての家のベランダに出、棹に洗いたての服を掛けている。翼を大きく広げた鳥が彼女の頭上高くを滑空している。見下ろせば、狭い街路を子供たちが元気良く駆けていた。
 彼女はこの地を治める王と、彼が王たる資格を証明すべく召喚した天使に感謝した。日々の平和な営みを送ることができるのは、全て偉大なる王とその守護天使のお陰である。毎朝彼らに感謝の言葉を捧げるのは、夫を失ってからの彼女の習慣であった。
「ファーレル、どこへ行くの?」
 家の玄関扉を蹴破るように開いて飛び出した息子に向かって、彼女は声をかけた。ファーレル・ストラシァは光を良く照り返すブラウンの瞳に、艶やかに輝く黒髪の持ち主である。歳は15。平民学校の年長だ。オーリン染めの衣服に身を包み、彼は通学路に出たところだった。
「今日は登校日なんだ。昨日ベルが言ってた」
「ひょっとして忘れてたの?」
「覚えてなかったんだよ」
 小憎たらしい笑顔でそう告げる息子を、レベッカは笑いながら見送った。真っ白に洗い上げたシーツが風を孕んで揺れている。
 平民の住む区画の街路は狭い。ファーレルはその隘路を走りながら、早くも放課後に何をするかという問題を頭の中でこねくり回していた。横合いから飛び出してきた猫を跳んで避けながら、彼は考えをまとめた。いつもの友人といつもの場所でいつもの探検をしようという、いつもの結論だった。彼は真新しいブーツで煉瓦の道を踏みしめ、学校への道を急いだ。
 王城へ続く目抜き通りを横切ろうとした時だった。ファーレルは自分に向けられた視線を感じた気がして、足を止め、振り返った。だが駆け抜けたばかりの通りには人影など無く、彼は首を傾げたもののそれ以上は深く考えず、早朝から大通りを往来する人々の合間を縫って向かいに到着した。彼が通ると必ず声を掛けてくる、昔から世話になっている老婆がいる。彼女は箒を手に、街の大動脈から外れた路を歩いていた。その先には平民学校の学生を狙ったいくつかの店屋物の屋台――さすがにこの時間から商売を始めている者は少ないが、昼時には賑わうはずだ。夏休みのお陰で数週間ご無沙汰だったが、見慣れた光景。いつも変わらぬウィッシュリンゲンの街並み。
 ……だが何かおかしい。ファーレルは足を止めた。街は彼を置いて動いている。老婆も仕込み途中の屋台も、背後から聞える目抜き通りの喧騒も変わらない。何もかもがいつもと同じだ。だが、拭いきれない違和感がある。どうしても彼はその感覚を排除できず、きびすを返して再度顧みた。
 誰もいない。
 ついさっきまで、ほんの一瞬前までそこに存在したはずのざわめきが消え失せている。ファーレルはしばらく立ち尽くし、僅かに戻って大通りを見回した。彼の視界から偶然人影が消えたわけではない。王都最大の、彼の記憶にある限り人通りの絶えたことなど無かったその大動脈が、唐突に空疎な場と成り果てていた。
「え?」
 思わず間抜けな声が出る。学校のある方に向き直ってみると、やはりそこには老婆の姿も屋台やそこで商売の準備をする男たちの姿も無い。路と街路樹、建物や壁といった「街」を構成するパーツはある。だが、そこに暮らす人間はひとり残らず消えているようだった。
 冷たい空気を吸い込んだ時のように、肺が震えるのを感じる。家並みの窓にあったはずの、扉のそばにあったはずの、門前広場で憩っていたはずの人々がいない。そこに存在していたのが嘘だったとでも言うように、なんの跡形も気配も無く、ウィッシュリンゲンは無人の都市と化した。
 ファーレルは足を踏み出した。どうしようもない不安が彼の胸を占めていた。目に映る全ての建物の扉を開き、中を確認する。だがどの建造物にも人はいなかった。いまやウィッシュリンゲンは虚像の都市であった。光の中にも影の中にも、人物はいない。ただひとり、ファーレル・ストラシァを除いては。王都に残された唯一の人間は、城へ向かった。王城。平民の彼にとっては、雲の上とも言える場所。王族は彼にとって、ほとんど神にも等しい存在である。そういった人々なら、消えていないかもしれない……。そういう思いが無いではなかった。
 門前広場から王城は、跳ね橋で繋がれている。通常なら橋は上がっている。そして広場側の縁には番兵が槍を携えて、平民たちを威嚇しているのだ。
 果たして、ふたりの兵士はいなかった。どういうわけか橋は下がっている。ファーレルは橋に駆け寄った。王都は固い静寂に支配されている。響くのは彼の足音と、乱れきった息遣いのみだ。闇の中の影のような完璧さを誇る静謐。ファーレルの立てる物音はその強靭な静けさに飲み込まれる。
 跳ね橋に足がかかるか、かからぬかというところだった。突如黒髪の少年の前に、漆黒の球体が現れた。降り注ぐ陽光を反射しない、真の黒に染まった球体だ。それは周囲の空間に稲妻のように細く鋭い衝撃を放った。断崖に吹き付ける突風のようなあおりを受けて、ファーレルは罵声を上げながら地に転がった。黒き稲妻は止まず、しかしそれは街を破壊しはしなかった。ただ放たれている。影響を受けたのはファーレルのみだった。
「なんなんだよ!」
 立て続けの理解不能な事態についていけず、彼は自らの混乱を悪態にして吐き出した。
 球体の中から、人の姿が現れ始めていた。その者は徐々に暗黒の球から滑り出ている。球は粘着質にその者に絡まり、自らから抜け出そうとする者を逃すまいとしているようにも見えた。ファーレルは呆然とその様を見つめた。口からは自分でも意味の分からないうめき声が漏れる。黒球からついにその束縛を振り切って地に下りた奇怪な者は、全身を黒と銀の衣装で包んでいた。男とも女ともつかぬ顔立ちで、しかし身体にぴったりはりついたような服の下には鋭い筋肉がその緊張を高めているのが窺い知れた。髪は長く赤い。両の頬に奇妙な刺青めいた文様が浮かび上がっている。
 しばらくしゃがみこんでいたその者はゆっくりと立ち上がり、ファーレルに歩み寄った。少年は後ずさったが、黒と銀の存在はそれよりも早く彼に肉薄した。ファーレルの頭に掌を置き、怯える少年の髪をひと房、指に絡めた。
「な、なんだよ、あんた」
 歯の根もかみ合わぬ調子で、意味があるのかどうか疑わしい問いを発する。そしてそれにはやはり答えず、闇の塊から現れた者は少年から離れた。
「ようやく見つけた、<獣の数字>の欠片」
「獣の、数字?」
 ファーレルに向けられたのであろう声は、男のものだった。深淵から響くような声。赤毛の男はファーレルに右腕を伸ばし、その手を大きく開いた。五指の先端に、先ほどの黒い球体から発された稲妻のような、微細な線が走る。線は次第に絡まって固まり、糸くずを丸めたようないびつな物体となった。それが掌の中央に集まり、拳大の漆黒の球となった。男が半歩踏み出すと、球はファーレルに向かって弾き出されたように向かった。
 音ほどの速度で飛来する球体が、ファーレルの胸に触れる。瞬間、少年の全身に激痛が駆け巡った。喉の底から絶叫を迸らせ、彼は天を仰いだ。首の血管が浮き上がり、身体のどこかで何かが切れる音が聞える。およそそれまでに経験したことのない、またすると想像もしなかった痛みに、彼は身を震わせることも叶わなかった。
 やがて少年の声が止んだ頃、彼はすでに人ではなくなっていた。背に巨大な力強い漆黒の翼が生え、手足はやや肥大化していた。その爪は鋭く伸び、猛禽の鉤爪がごとくであった。髪はその色素が完全に抜け落ち、白髪となっている。眼は血走り、瞳は紅に燃え上がった。がっきと噛み合わされた歯。犬歯が異様に伸び、まるで牙である。耳すらも鋭く尖り、着ていた衣服は襤褸のようだった。
「<獣の数字>の欠片よ、我が誘いに応えよ」
 さきほどまで人間だった少年の腕に、数字が3つ浮かんだ。右から6、6、3。それを見て、赤毛の男が驚愕の表情を見せる。
「馬鹿な! <獣の数字>はまだ不完全だと言うのか!? 三なる六はまだ完成せぬのか!」
 苛立ちを隠さず、男はファーレルの腕を握り締めた。少年の腕の<3>から黒き炎が噴出し、男の手を焼いた。だが眉ひとつ動かさず、男は少年の腕を強く握りこむ。ファーレルは鋭い視線を男に投げかけた。その口が開く。
「<暗闇の影>を呼び出すには、まだ力が足りぬ。はるか東の地にて<地獄の鎌>を手に入れよ。それこそが数字を完成させるだろう」
「東か……。<3>ならば、残りは僅か。ならばその鎌こそがそれを埋めてくれるのだろう」
 呟いて、男はファーレルの腕をつかんだまま身を翻した。その目の前に、再びあの黒い球体が出現する。微細な稲妻を走らせる濃度の高い闇に入り込み、彼とファーレルの身体は完全にその中に取り込まれた。直後に黒き球は消え、王都ウィッシュリンゲンに喧騒が戻った。人々はいつもと変わらぬ暮らしを送る。この街からひとりの少年が去ったことが知れたのは、この3日後のことであった。

 斯くして<不毛の王>ラムデリアは<ナンバー・オブ・ビースト>、<666>の欠片をまた手に入れるに至った。だがこの先彼を待つものは、それまでのどれよりも遥かに勝った守護者と障害であった。ここで我々は、彼の<天使>打倒の旅の最難関を目にすることになる。この埃のうずたかく積もった室の中にあってさえ、それは眼前の出来事のように鮮烈な実感をもって蘇る……。

"聖なる者と邪なる者に関する手記"より

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