リンゴ

 

 よく熟れた林檎が、薄い塩水に浸っている。青く半透明な器に満たされた食塩水の中で、その真紅の果物は静かに揺れている。掌に余る大きさのそれは、汗をかいているかのようにその身に水滴をまとわりつかせていた。伝い落ちるにつれてそばの水滴を集め、それは次第に大きくなって速度を増し、水面に落ちた。小さな波紋が生まれ、そのためではないだろうが、林檎がまた揺れる。
 と、その果実をひとの手が掴んだ。塩水から引き上げ、その女は林檎を口に運ぶ。小さく開かれた口から覗く歯が、果皮に食い込んだ。水に浸かっていた底のあたり。そこに小さな歯型が付く。彼女は僅かに塩味の混じった甘い実を時間をかけて咀嚼し、飲み込んだ。乳白色のローブの袖が揺れる。特一級白魔道士の証であるその衣を、彼女はもう何年も前から着こなしていた。
 青い器を載せた卓から離れ、わざと足音を立てて彼女は僕に近づいた。魔法都市の白魔法学院、その一室。第788教室の最前席。そこで僕は、彼女フルーノ・ハートメイヤー教師の個人授業を受けていた。有り体に言って、補習講義である。黒板には流麗な筆跡で、『転移魔法に関する空間歪曲の補正理論』と書かれていた。何度テキストを読んでも、僕にはさっぱり理解できない理論だ。
「で、具体的にどこが解らないの?」
「およそ全部です」
 淡く林檎の香りを漂わせて、彼女は瞳を閉じて眉を寄せ、長い睫毛を震わせて嘆息した。やれやれ困ったわね、とでも言いたげだ。実際に心から困っているのは僕なのだが。この科目の単位が認定されないと、学院の卒業試験すら受けられない。僕とて特一級とまではいかないものの、一級白魔道士の資格を持っている。ただ、彼女の講義は難解すぎるのだ。彼女は『転移魔法に関する空間歪曲の補正理論』の他、『白魔法に見る力の発端』、『現代魔法科学論のアナロジー』、『魔法と人間の歴史的相関』という3つの講義を受け持っているのだが、それらは全て学院内で受講できるものの中で最難度に分類されている。はっきり言ってしまうと、全然知らなくても白魔法の行使には全く問題無いものばかりである。
 僕はフルーノ教師の顔をもう一度上目遣いに覗き込み、その瞳が閉じられたままであるのを確認した。その上でテキストを睨みつける。瞼を上げた時に自分の顔を僕が見ていたら、彼女は怒鳴るだろう。女の顔に見惚れてる暇があったら理論のひとつでも理解しなさい、なんて風に。自分が美人であることを鼻にかけず、しかし否定もせずにそのまま口にしたりする。事実を事実として認めるのは魔道士としての初歩的な心得、なのだそうだ。実際、魔法の限界を知り、可能と不可能、すなわち魔道士と世界にとっての事実を認識するのは必要なことだ――とはいえ、彼女の言動は彼女を知らない者の目には自信過剰と映るだろう。
「だからぁ。転移魔法を使うってのはその場と遠隔地とに存在する同質量の物質を空間の波長の頂点を連結することによって直結させて相互移動させるってことでしょだからその際に生じる極小コラムによるエントロピー歪曲を補正しないと空間波長に揺らぎが生じて転移する物質の質量によっては半径数百キロメートルに渡る空間の全てが崩壊する可能性が出てくるからその歪曲点をファラフスト効果を使ってヴァルバレイ運動を引き起こすことによって補正してあげないとまずいでしょ危ないでしょやばいでしょ解った?」
「解りませんって」
「ムキー!」
 先生はアッシュブロンドの髪をかきむしりながらヒステリックな声を上げる。しかしそんなことをされても、解らないものは解らないのだ。やはり彼女の講義を履修することにしたのが間違いだったのだろうか。
 フルーノ教師の力の為せる業か、卓の上で青い器に入った林檎は動きを止めない。かじられた面を薄い食塩水に浸したまま、ゆらゆらと。それを水から取り上げて、先生はまた瑞々しいその実に歯を立てる。ガリッという音とともに、かじられた果実の欠片が先生の口に消える。その光景は、僕にはひどく遅く送られているように見えた。また時間をかけて僅かに塩気の混じった果実を咀嚼し、彼女はそれを嚥下した。
 林檎をゆっくりと器に戻し、先生は苛立たしそうにチョークを手に取った。そうして黒板の左上の隅から、猛烈な速度でなにやら書き始めた。それは体系化された白魔法の論理式で、たいていは僕にも理解できたが一部はやはり解らなかった。しばらく教室にはチョークと黒板が格闘する音だけが響いた。
「はい、これを暗記するよーに」
「はぁ!?」
 つまりこれから、この膨大な量の(少なくとも僕にはそう見える)板書を、全て書き写せということだろうか。僕は泣きそうな気持ちになりながらペンを取った。
「これ、完璧に覚えて理解すればさっきの理論も解るはずだから」
「はー」
 とはいえ、この式自体も僕にとっては所々不気味な暗号にしか見えないのだから、結局は理論を理解するのと大差無いんじゃ……なんて思いながらも、僕は必死で腕を動かした。

 男の話を聞き終わって、少女は長く浅い溜息を吐き出した。その長い睫毛に縁取られた瞳は閉じられている。口許には、柔らかい微笑が浮かんでいた。開け放した窓から入ってきた風に、少女の明るいブラウンの髪が揺れる。肩より少し上までしかない短い髪。赤い武道着に身を包んだ彼女を見て、男は胸中で独りごちる。
(似ているな――当然だけど)
 胸に右手を当てたまま、聞いたばかりの話をよく味わうように、少女はしばらく微動だにしなかった。風に揺られる髪だけが、少女にとっての動であった。男は窓に目を向ける。差し込む朝陽がカーテンを揺らしているようにも見える。魔法都市に吹く風は、他の場所のそれと違って僅かに魔法の力を持っている。カーテンのそばで緩やかに渦巻き、その魔法の風は陽光を拡散していた。
「そうですか……母さん、そういう人だったんだ」
 突然発された少女の声に、男は軽く驚いて彼女の顔に視線を戻した。髪と同じ色の瞳は、今やしっかりと開かれている。意志の強さを感じさせる長くきりっとした眉も手伝って、少女の顔は決意に満ちているように見えた。男は先ほどの思いを反復していた。
「僕たち生徒は、彼女の破天荒さに時々悩まされたよ」
 少女は小さく笑い、頭をかいた。まるで自分の幼い頃のことを言われて照れているような仕草だった。
「彼女は天才でした。彼女は常に、僕たちには手の届かない高みにいた」
「それで、林檎が好きだった?」
「そう――」
 少女の口調は、すこし可笑しがっているようだった。それほどの魔道士が林檎などという一般的な食べ物を好んだことが意外だったのか。腰掛けた椅子の背もたれに体重を預け、男は敬愛した師のことを語る。彼は自覚していなかったが、その表情は憧れの女性を思う時の少年のそれだった。
「林檎は彼女の象徴でした。僕たちは、彼女の唇が林檎に触れ、その実を噛む仕草をいつも憧憬とともに見つめていた」
 彼女ほど、あの真紅の果実の似合う女性はいなかった。彼女は林檎をかじり、生徒たちに檄を飛ばした。だが彼女に見惚れる生徒たちは、怒鳴られるまでその声に気づかなかった。あるいはチョークやテキストで攻撃されるまでは。今椅子に座り、脚と腕を組みながら少女にその母のことを語る彼も例外ではなかった。
「むしろ林檎は、彼女そのものと言ってもよかった。僕たちは林檎を見れば、彼女を連想せずにはいられなかったからね」
「今でも、そうですか?」
「もちろんそうだよ」
 光を拡散させる風が吹き込む。それが少女の髪をなびかせ、その時彼女は立ち上がった。握り締められた左手から、細い鎖が垂れている。
 少女は男に礼を述べた。それから彼女は左手を開き、小さな林檎のレリーフのついたネックレスを首に巻きつけた。それを武道着の中に入れ、彼女は戸口へ向かう。挨拶をして光の中へと歩み出ていく少女を、男は複雑な思いで見つめていた。囚われた母を救い出すと彼に告げた少女は、その母の面影を確かに持っていた。その背中は華奢で小さかったが、誰よりも強い何かを感じさせた。そう、まるで彼女の母、あの無茶で理不尽で、しかしこの上なく穎脱した魔道士であった彼女の母と同様に。
「あなたの娘さんは、あなたを超えるかもしれませんよ、先生」
 妻に日ごろから独り言を注意されていることを思い出して、彼は小さく苦笑した。青い半透明の器に入り、卓の上に置かれた林檎が揺れていた。

________closed.