桜の道

 

 骨が軋んでいた。筋肉が歪んでいた。内臓が悲鳴を上げていた。脳が傾いでいた。神経が引き裂かれていた。
 指先に力を込めてみた。僅かにだが、冷たい硬質の感触が返ってきた。何度かそれを繰り返した。どうやら両手は無事のようだ。瞼を上げてみた。視界がはっきりしない。暗い。腕を動かしてみた。何か硬いものにぶつけて、脳髄まで痛みが駆け抜けた。痛み。つまり生の証。僕は生きていた。
 ゆっくりと上体を起こした。少し動くだけで、全身に微細な電流が走った。それが脳を刺激した。痛みによる目覚め。意識が痛みに覚醒していく。
 部屋は暗かった。明かりが点いていないせいもあるだろう。だが時計の針は二時を指している。昼間だというのにこの暗さは異様だった。なにか呪いめいたものを連想させた。
 頭を振り、やはり軽く走る痛みに顔をしかめた。やっとのことで立ち上がり、フローリングの床の上で眠っていたことに気づいた。全身が痛むのはそのためでもあり、昨夜飲みすぎたアルコールのためでもあるのだろう。木製の小さなテーブルに置いてあった眼鏡をかけた。視界がようやく輪郭を結ぶ。
 その時になってやっと、外が雨であることを認識した。雨音が静かに聞えてくる。遠いようでもあり、近いようでもある不思議な音色。雨の音は長い。だから僕はいつも、この音の中にいると静寂を感じる。音のある静寂。ベッドのへりに背中をもたせかけ、右膝を立てて目を閉じた。遠く遠く、違う世界から聞えてくるような雨の音。それはまるで、彼女の呼び声のよう。
 永遠の音の中に身を沈める。有音の静謐に、耳が痛い。
 瞼の裏側に、彼女の姿が映った。黒く短い髪。緩やかにウェーブがかかっている。僕の少し先を歩いて、時々全身で振り返っては微笑みかけてくる。そんな無邪気な彼女を抱き締めるのが好きだった。二人でいるときは、よくそうした。そういう時、彼女は必ず僕の胸に頭を預けてきた。細く、小柄な身体。その小さな身体を抱き締めて、そして頭を撫でるのが好きだった。彼女の髪は柔らかく、良い香りがした。多少性格がきつく、頑固なところがあった。けれど素直で、まっすぐで、芯のある女性だった。傷つきやすく、甘えん坊だった。そんな彼女を、僕は誰より愛していた。
 心にぽっかり穴が開く。どういう感覚なのか、今までさっぱり解らなかった。これまでにも何度か恋人との別れはあった。だがどれも、訪れるべくして訪れたようなものだった。喪失感というものを味わったことが無かった。家族や親族との離別もあった。悲しみは覚えたが、失う感覚は無かった。
 想いを抱いて眠るだなんて、夢見がちな詩人の幻想だと思っていた。今を儚げに歌う、売れない歌手の空想だと思っていた。
 目を開いた。部屋は変わらず暗い。干からびたと思っていた涙腺が、潤いを取り戻していた。右の目じりから、涙が一筋滑り落ちた。
 立ち上がってカーテンを開いた。苦笑した。なんのことはない、今は夜中の二時だったのだ。窓には雨の雫が無数に流れ、その向こうには漆黒が広がっていた。近隣の家々は、全て明かりを消していた。自動車も通らない。雨と闇だけがあった。
 闇の一点を見つめた。得体の知れない何かが、こちらを向いて笑っている気がした。それに手を伸ばした。指先が触れた。温かく柔らかいものが僕を包み込んだ。怠惰な快感。それが液状に広がって、僕を飲み干した。闇と同化した僕は、雨の中にいた。雨は涙のように、悲しみを流していった。

 翌日は快晴だった。少し厚着をして、まだ肌寒さの残る四月の街へ僕は出かけた。早朝であるせいか、人とすれ違うことはほとんど無かった。住宅街を抜け、繁華街へ続く道を歩いた。この時刻なら、営業を始めている店も少ないだろう。人波で溢れるショウウィンドウには飽きていた。買い物をしたいわけではない。ただこのだだっ広い都市の真ん中で、狭い空を見上げてみたかった。広い空には、彼女を見つけられないような気がした。
 交通事故だった。いくつもの道路が交わる巨大交差点の只中で、マミはわき見運転車に撥ねられて即死した。遺体は何百針もの縫合を受けてから遺族に引き渡された。まだ二十歳だった。
 幸い、顔に傷は無かった。そのために棺桶に収められた彼女は、顔色が少し悪くなっていたものの、眠っているようにしか見えなかった。詰め物をされた鼻腔だけが、不自然に白かった。僕はマミの葬儀に出席したが、出棺後彼女の肉体が焼かれても、涙を流すことはなかった。自分でも驚くほどに冷静だった。けれど今思えば、ただマミの死を実感できていなかっただけなのかもしれない。死というものの存在感が、その時はひどく希薄だった。
 それが昨日だった。
 葬儀の三日前、つまりマミの命日となった日だが、その日彼女は友達と買い物に出かけると言っていた。何を買いに行くのかは分かっていた。一週間後は、僕の誕生日だったのだ。
 葬儀が終わって、僕は暮れ始めた街へ出かけた。マミが撥ねられた交差点を渡った。道路には血の跡ひとつ無く、縦横無尽に自動車が走っていた。マミが死んでも、世界どころかこの街ひとつですら、何も変わることは無かった。人ひとりの存在なんて、所詮その程度のものなのだろう。親しい者には耐え難いが、一握りの彼ら以外にとってはなんでもないことなのだ。今この瞬間も、世界のどこかで誰かが死んでいる。でもそれは、僕にとってはどうでもいいことだ。そんな風にして、全の中の一はいつも孤独に消えていく。
 マミを失った穴を埋めようとして、その日はアルコールを飲んだ。普段はほとんど飲まないのに。ショットバーに入って、とめど無く酒を流し込み続けた。当然だが酔いつぶれ、動けなくなった。しばらくテーブルに突っ伏して、なんとか動けるようになると、店を出て街に戻った。アルコールが抜けきっていないから、足取りはふらふらだった。待ち呆けしている女の子を誘った。また酒を飲んだ。ホテルへ行った。わけがわからないまま行為は終わり、眠っている女の子を部屋に放置してそこを出た。カラオケへ行った。ひとりで歌った。怒鳴るように歌った。酒を飲んだ。急性アルコール中毒にならないのが不思議なくらいに飲んだ。そして歌った。怒鳴った。
 ……何をしても、どこへ行っても、穴は埋まらなかった。ふらふらの足取りでアパートへ帰った。

 繁華街は寂れていた。店のシャッターは全てが下りていて、監獄を思わせた。あの中にひとりずつ、陰気な囚人がいるに違いない。空を見上げても、マミを見つけ出すことはできなかった。

 行くあては無かった。というより、目的地なんてどうでもよかった。ただひとところにいると、悲しみと孤独の波に連れて行かれる気がした。
 いつからか、僕の目はずっと地面を見ていた。アスファルトがひび割れている。昨夜の雨が乾ききらず、車のタイヤに削られた部分に水が溜まっていた。
 アスファルトが石畳に変わった。薄いグレーと臙脂のまだら模様。公園に迷い込んだらしい。煉瓦は幾何学的に、どこまでも続いていた。
 ふと、桜の花びらが視界に飛び込んできた。煉瓦道の両脇が少し窪んでいて、そこにできた水溜りにそれは浮かんでいた。顔を上げてみると、目に映る全てが花びらで埋め尽くされていた。どうやらこの道は、広場に続く桜並木だったようだ。そういえばこの間、天気予報が桜の開花を告げていた。雨で散ったのだろう。裸になった桜の木々は、どこか寂しげだった。
 マミの言葉が脳裏をかすめた。
 桜って満開の時も綺麗だけど、私は散ったあとのほうが好きだな。夜に雨が降ったりすると、次の日は朝早くに桜を見に行くんだ。花びらで埋め尽くされた地面と水溜りって、すごく綺麗なんだよ……
 やがてこの花びらも、誰かの靴底に踏みしめられて汚れていくのだろう。目の前いっぱいに広がる、桜の花畑。春の朝靄にかすむその光景は、綺麗で、儚げで、幻のようだった。だれかが通ったら壊れてしまう危うさがあった。そして同時に、満開の桜からは感じ取れない高潔さがあった。その優しい景色は、マミのようだった。美しく、気高く、傷つきやすく、寂しげだった。
 隣をひとりの少女が通りすぎた。少女は花びらの無いところを選んで、慎重に歩いていった。僕より十メートルほど進んだところで、身体ごと振り向いて微笑みかけてきた。そして彼女は消えた。
 空を見上げてみた。青を遮るように枝が広がっていた。

________closed.