――僕はひとりだった。

 神社の境内は、参拝客でごった返していた。1月1日。県内で最も大きな神社であるここは、毎年初日の出を拝み、一緒に初詣も済ましてしまおうとする人間たちで一杯になる。
 晴れやかな着物に身を包んだ若い女の子の一団が、動きやすい服で来なかったことを後悔している。子連れの若い夫婦が、幼い息子に昼寝をさせておいてよかったと話している。鳥居の側では、労働者風の男ふたりが座り込んでカップ酒を飲んでいる。彼らを標的にした屋台が、たくさん出ている。温かい食べ物や飲み物がよく売れているようだ。
 時刻は午後11時57分。間もなく年が明ける。
 そう、年が明ける。僕にとって、碌なものではなかった年が。今までの人生で、恐らく最も汚れ、荒んだ1年間だった。充実感は、すぐに虚無感に取って代わられた。失ったものはたくさんあったのに、得たものは何も無かった。
 失ったものを、僕は数えてみた。家族、恋人、友人、尊敬する人、金、車、信用、居場所、そして僕の心。これだけのものを失っても、大したことないと思える部分が、まだ僕の中にあった。それは言うなれば、空き地に蔓延った雑草だ。勝手に繁殖し、テリトリーを拡げていく。
 去った友の顔が、脳裏に浮かんだ。彼はいつもそうしていたように、八重歯を見せてはにかみ笑いしている。僕は頭を振って、幻影を追い払った。彼は、もう、いない。
 カウントダウンが始まった。もちろん、神主がマイクを持ち出して、なんてことはない。誰からともなく、時計を見たのであろう者たちから始まったのだ。カウントは5を切り、境内の人々は奇妙な連帯感に昂揚しているように見える。僕の目は、彼らを冷淡に捉えていた。
 カウントがゼロを迎え、そこここで新年の挨拶が交わされる。屋台の主人たちも、客にいちいち挨拶をしてから商品を手渡している。雪でなくてよかったと、僕はなんとなく思った。
 さすがに冷え込んできたので、屋台でたこ焼きを買った。主人は僕にも挨拶をして、焼きたてのたこ焼きを渡した。おでんの屋台で、燗酒を買った。備えの良いことに、カップ酒の燗だった。熱いカップに手を灼きながら、鳥居の側の植垣に腰を下ろす。
 尻に当たる冷たい石に顔をしかめ、酒を少し口に含む。嚥下すると、熱い液体が喉から腹に広がった。たこ焼きをひとつ頬張り、その熱さに苦心しながら咀嚼する。空を見上げると、暗い青に木々の陰が黒く浮いていた。影と雲の隙間から、薄い月が覗いている。白々しい光を投げかけるそれは、地上を冷たく照らしている。
 境内の人口密度は、いっこうに減る様子が無い。ざわめきと屋台の明かりが、夜の帳を易々と打ち破っている。
 不意に、視線を感じた。見てみると、小さな女の子が僕を見つめている。タートルネックボーダーのセーターに、白いコート、フレアのジーンズ。最近の子供らしい、可愛らしくお洒落な恰好をしている。彼女は僕がいきなり自分に視線を合わせたことに驚いたようだった。
「おじさん、ひとりなの?」
 女の子は、珍しいことに話し掛けてきた。利発そうな顔をしている。物怖じしない性格なのだろう。
「おいおい、僕はまだ25だぞ。おじさんはないんじゃないかな?」
「あ、ごめんなさい。お兄ちゃん」
 言い直して、女の子は僕の隣に座った。白いコートが汚れるのを気にして、裾はきちんと捲っている。女の子は、その手にパイン飴を持っていた。リンゴ飴はもう廃れてしまったのだろうか。
「――そうだね、僕はひとりだ」
 少しの間を置いてから、僕はさきほどの女の子の質問に答えた。女の子は不思議そうに僕を見、飴を口から出した。棒の先にくっついた飴は、とても甘そうだ。
「ひとりで初詣に来たの?」
「信心深いのさ」
 分かっているのかいないのか、女の子はふ〜んとだけ答え、また飴を口に含んだ。僕はたこ焼きと酒を交互に口に運び、それらを無感情に飲み込んだ。酒が無くなることには、身体も随分温まっていた。女の子も飴がなくなったようで、棒だけになってしまったそれを指だけで振ったりしている。
 僕と女の子は、少しだけ話をした。主に女の子が話し、僕は相槌を打っているだけだったが。女の子の家のことや、置いてきたペット犬のビッキーのこと、彼女の好物である鶏肉の料理方法など。彼女は年齢の割に、かなりの博識だった。快活な口調が、耳に心地よかった。
「あ、お母さんだ!」
 女の子は側を通った女性に駆け寄った。ふたことほど会話した後、女性は僕に頭を下げた。迷子になった娘を見てくださって、というところだろうか。僕は好意的に微笑んで、手を振った。母子は一緒に歩いていった。女の子は幾度か振り返り、僕に手を振った。
 静寂が戻った。久しぶりに、ひとと共有した時間が終わってしまった。どうしようもない喪失感が全身に襲い掛かってきた。僕はそれを振り払うために立ち上がり、ごみ箱にたこ焼きの空箱と酒のカップを捨てた。
 そのまま、少し歩いてみる。屋台はますます盛況で、夜明け前の最も暗く、寒い時間を乗り切ろうとする人々が群がっている。誰もが誰かと一緒だった。ひとりでこんなところにいるのは、僕くらいだろう。
 だけど仕方が無い。僕には連れる他人などいないのだから。3ヶ月前に、全てを失ってしまったのだから。あの忌まわしい諜報活動の日々に、見切りをつけたと同時に。僕は社会的に抹殺されたのだ。僕には、何も、無い。
 焼きそばを買った。さっきのおでん屋でまた酒を買い、もとの植垣に戻る。腰を下ろして割り箸を割り、焼きそばをちまちまと食べ始める。時計を見ると、短針が2を指していた。境内に目を遣ると、少しだけ人が減ったようだった。
 僕は酒で温まった身体を、持ってきた毛布で包んだ。そろそろ他人の喧騒を見ているのにも飽きた。仮眠を取ることにしよう……。

 銃声につづいて、絶叫が上がった。それは断末魔の叫びだった。目の前に、男がどうと倒れる。心臓を撃ち抜かれた男は、その目を見開いて絶命していた。
 僕は駆け寄ろうとしたが、それは許されなかった。追っ手がすぐそこまで来ていたからだ。僕が所属していた、諜報組織が雇った殺し屋。姿は見えないが、どこからか銃弾を放ってくる。あるいは複数なのかもしれないが、僕にはその気配が全くつかめなかった。
 隣を、親友が走っている。幼い頃から共に育ち、共に道を踏み外した。そして今、共に道を戻そうと走っている、僕の親友。いつも八重歯を見せてはにかみ笑いをする、彼。僕らは自分の財産をまとめた、アタッシェケースの隠し場所を目指していた。
 ようやく辿りついた頃には、僕も彼も、すっかり息が上がっていた。急いでアタッシェケースを引っつかみ、その場を離れる。休息は許されなかった。
 だが、僕はケースをつかみ損ねた。そしてそのお陰で命を拾った。僕の親友は、ケースの取っ手に仕掛けられたプラスチック爆弾を作動させ、四散した。僕はその爆発を呆然と見ていた。手は、ケースに僅かに届かぬ位置で硬直していた。
 僕の心は、その時に失われてしまった。僕は取っ手の爆弾に気をつけて――解除している暇は無かった――ケースを開き、必要最低限の財産、つまり現金だけを抜き取って走り出した。殺し屋の銃弾が爆弾を作動させ、ケースが爆裂する音が背後で聞こえた。

 ――目を覚ますと、闇が少し薄れていた。頭を振って、厭な夢を追い払う。髪が少し、露に濡れていた。少し目をこすって、毛布を取った。冷たい空気が僅かに汗ばんだ肌をなで、僕は身震いした。
 境内は少し静かになっていた。屋台も客が引き、主人たちは夜明け後の交代のために仕込みをしている。僕はあのおでん屋に行き、今度は酒ではなく温かいお茶を買った。
 やがて、東の空が明らんできた。ようやく日の出なのだ。僕は立ち上がり、他の人々と同じように鳥居の側に立った。
 太陽はゆっくりと昇り、僕を、世界を照らし始めた。境内に影が生まれ、人々の顔が朱に染まる。来光を迎え、手を合わせるひとも少なくなかった。
 知らぬ間に、僕は涙を流していた。太陽が、僕の心を洗ってくれるようだった。空隙が満たされていくのを、僕は感じた。その光は不思議な力を持っているようだった。少なくとも、それは僕に与えてくれた。光が満ちていく。こうなることを予測していたわけではなかったが、どこかで予感してはいたのかもしれない。圧倒的な存在を目にすることで、自らの私事を瑣末事と思い込ませようとしていたのかもしれない。そして結果的に、それは功を奏したのだ。
 失った多くのものを忘れることは無いが、今はただ受け入れようと思う。あの神の光がもたらしてくれた、曖昧だが明確な、明日への希望を。

________closed.