夜の息

 

 ――夜という時間が好きだ。
 昔の人は夜を、闇を恐れたというが。あの心地よい、母の胎内のような空間のどこが恐ろしかったのだろう。
 黒一色のゆりかご。誰がいようと、何が在ろうと、その存在が等しく無価値となる原始の静寂。温度のある黒。息遣いすら、ノイズとして響き渡るだろう。そこでは何が何へ回帰するのか?
 肌色の闇。それに身を任せるとき、この上ない安堵と恍惚に包まれる。虚無とのシンパシー。あるいは存在との背反。
 ……静かに横たわる、死のリズム。
 それら全てを、ベッドの上で感じる。目の前に広がる黒を見つめ、次第に染め壊されていく天井に手を伸ばし。己の腕すら虚空にもぎ取られ、意識は忘却の彼方に置き去りにされる。
 そこにあるのは、血の通った黒。
 あたかもそれ自体が生き物であるかのように、闇は身をうねらせながら全てを飲み込んでゆく。抵抗は無意味だ。

・ ・ ・ ・ ・

 ふと目を開いて、藍乃はため息をついた。
 いつの間に眠っていたのか、なぜ目が覚めたのかはわからない。ただ気だるい、しかしどこか居心地の良い脱力感があるだけだった。全身の力が抜けている。
 しばらく何も考えず、天井を見つめる。天井は黒かった。いや、部屋そのものが黒かった。
 夜。
(――最高)
 瞼を下ろそうが上げようが、見える光景は変わらない。ただただそこには、闇色に塗りつぶされた世界だけが広がっている。恐怖の王が、音も無く君臨している。
 静謐だった。
 動くものは何も無く、耳が痛くなるほどの静寂がはびこっている。打ち破るのはひどく簡単そうでいて、ひどく困難そうでもあった。何か決められた手順――魔法の呪文のような――が必要なのではないかと、本気でそう思えてくる。
 煩瑣を引きちぎってでも実行する勇気は無く、藍乃は寝返りを打った。
 ――シーツがこすれ、音が生まれた。
(……なんだ)
 夢から現実に引き戻された気分で、彼女はしかし平然とそれを受け止めた。
(簡単じゃん)
 達成感は無かったが、なぜか満足感があった。ひどく面倒な道のりを、秘密の近道を使って早回りしたような、そんな斜めの満足感が。
 狭隘な部屋だろうと、渺茫たる砂漠だろうと、闇の前ではあらゆる空間は同義だ。
 スプリングの効いたベッドで、彼女は曖昧に視線を漂わせる。見つめた一点がどこよりも濃く塗られていく、そんな錯覚。どこよりも濃くなったその部分は、そしていつしか彼女を包む全てに波及していくのだ。
 生ある黒は、そうして世界を支配していく。
 彼女は目を閉じ、闇に身を任せた。怪物はその身体を優しく抱き、その音無き鼓動は彼女に安息をもたらした。闇の抱擁は、真の安寧だ。安寧であり、快感でもある。
 ――眠りに落ちる瞬間を、彼女が知覚することはまたもなかった。

________closed.