美しい予感

 

 ブルーベリー・アイスクリームを食べる時に注意しなければならないことは、次の3つだ。1、ヴァニラ・アイスとブルーベリー・ソースは4対1の割合でスプーンに入れる。2、口に入れたら舌の上だけで両方を混ぜ合わせ、味わう。3、ブルーベリーの香りを楽しむために、鼻が詰まっている時には食べない。
「最後のは食べる時のって言うより、食べない時の注意のような気がするけど」
「物事は、常に対で存在している。つまり陰と陽だよ。何にでも表と裏がある。そういうのってわかる?」
 僕は両手の人差し指を顔の前で立て、それらを互いに近づけたり遠ざけたりしながら説明した。
「あんたね」と前置きしてから、彼女は言った。「子供と思われたくないなら、他人に無闇に何かを教えようとしたりしないことよ」
「僕は12歳だよ」
 彼女は肩をすくめて煙草を吸った。
 隣に座っているこの赤いフレームの眼鏡をかけた女性は誰だか分からない。スーツを着ているところを見ると仕事中なのかもしれないが、こんな場所では何も出来ないだろう。
 一言で言うなら、あなぐら。ただし明らかに人の手によるもので、地面にも壁にも天井にも石煉瓦が敷き詰められている。ただ、どこを見てもボロボロだけど。幾何学的な彫刻の施された石の柱もたくさん見られるが、まともに地面と天井を結んでいるものの方が少ないかもしれない。僕の左隣にも柱がひとつ転がっていて、僕はそれに肘を乗せて半分もたれかかっている。女性はと言うと僕と同じ壁に背中を預けてはいるものの、脚をたたんでまっすぐに座っている。
「ついでに言うと、鼻が詰まっている時はブルーベリーの香りどころか味も分からないんじゃない?」
「通は違うんだよ」
「なるほど」
 女性は正面の斜め上に視点を固定し、その方向へまっすぐに顔を向けたままで僕と会話する。それが気に障るわけではないが、何をずっと見ているのかは気になる。彼女の見ているらしき方を見てみるが、そこにはひび割れた石煉瓦と倒れかかった柱が数本あるだけで、特に関心を引くものは無かった。
 会話が途切れたので地面に散らばっている小石を取り上げて、石柱に施された彫刻の溝に転がしてみた。これはもしかしたら地面じゃなくて床なのかもしれないし、そもそもさっきのは会話じゃなくてただの口上だったのかもしれない。なにせ僕の隣のこの女性が、することが無いから何か話せと要求したから話しただけのことだ。小石は溝を転がって、途中で何かのバランスを崩して地面あるいは床に落ちた。
「地面あるいは床」
 口に出してみたがもちろんどうにもならない。女性が少しこちらを向いて首を傾げただけだ。
 もしこれが床なのだとしたら、と言うよりどう見てもこれは明らかに床だろう。だってここは完全に人の手による建造物なのだ。長方形の石は精確に黄金比を誇っているし、柱は当然のように中央が膨らんだエンタシスだ。おまけに壁と天井、そして床の成すのは直角。エメリヒ・ノルデの地下に遺跡のようなものが眠っているなんて聞いたことは無いけれど、僕たちが最初の発見者ではないと言い切れないということもあり得るかもしれない。自信はもちろん無い。僕はまだ12歳なのだ。
「探検してみる?」
 出し抜けにそう言ってきた女性に向かって、僕は反射的に頷いてしまった。「反射的に」。奇妙な誘いに対して反射的に。遺跡という言葉が頭の中で反響していた。それに探検という言葉も悪くない響きだった。遺跡。探検。悪くない、当然。
「僕は12歳だからね」
「その年齢に何かこだわりでもあるわけ?」
 僕たちは立ち上がって歩き出した。

 少し歩くと、すぐに周囲は薄暗がりになった。さっきまでは陽が差していた。なぜかと言うと、天井に穴が開いていたからだ。それも僕とこの隣を歩く女性が、同時に落っこちることが出来るくらいの大きさの。つまり僕たちは地面に開いていた大きな穴に落っこちたのだ。その落っこちた先が遺跡だった。穴には跳び上がっても手が届かず、石柱を動かすことができるほど僕たちはふたりとも力持ちではない。穴から脱出する手立ては無かった。
「そういえばあなた、名前は?」
「イルセ・シュタイガー。趣味は読書。好きなおやつの組み合わせは、チョコレート・ドーナツとカフェ・オ・レ」
「ブルーベリー・アイスは?」
「実はドーナツのほうが好きなんだ」
 女性はふうんと言ったきり、黙ってしまった。だから僕も黙って歩いた。もちろんすぐに前方が真っ暗闇になった。歩き出す前から真っ暗闇が見えていたけれど、今まさに僕たちは真っ暗闇の鼻先にいた。
「私の名前は聞かないわけ?」
「よかったら聞きたいな」
「メグ・フォンターナ。仕事は新聞社のデスク。好きな天気の組み合わせは、雨のち晴れ」
「新聞社って、時計塔広場にある、あの?」
「そう、あの」
 すると彼女は結構な有名人だ。なぜならエメリヒ・ノルデには1種類の新聞しか配達されていないから。街の中央にある時計塔の周囲が広場になっていて、そこに面して新聞社の小さな支社が設けられている。彼女がその責任者なのだったら、街の人々は彼女のことを知っているだろう。ただし僕は知らなかった。
「で、新聞社のデスクだから、当然こういうものも持っているわけ」
 そう言ってメグはスーツの内ポケットから懐中電灯を取り出した。スイッチを何度か切り替えて、点灯するかどうかを確認している。
「それって新聞社員の基本装備?」
「まあそんなところよ」
 懐中電灯の明かりで照らしてみると、目の前には巨大な芋虫がいた。なんていうことは無く、もちろんただ平坦な道が続いているだけだった。僕たちは歩を進めた。
 どうやらこの遺跡はかなり広いらしい。遺跡の広狭の基準なんてわからないけれど、僕にはそう感じられた。辻や角を何度も曲がったけれど、行き止まりには一度もぶつからない。どこまでも延々と道が続いている。おまけに部屋らしきものも見当たらない。まるっきり迷路だった。その上そこらじゅうで柱が倒れていたり煉瓦が転がっていたりするので、懐中電灯の明かりを頼りに歩くには少し危ない。しかも暗いから苔がたくさん生えていて、足元が滑る。僕はつまづいたり滑ったりで何度も転びそうになった。メグはパンプスなのに、滑らないように器用に歩いている。
「今大きな地震が来たら間違いなく生き埋めになるね」
「生き埋めかどうかはわかんないわよ。死んじゃうかも」
「ぞっとしないね」
「地震が来ても安全な場所なんて、学校の校庭くらいよ。エメリヒ・ノルデでは」
 確かにそうだ。時計塔広場も場所としては広いけど、なんといってもあの高い時計塔がある。あれが倒れたらひどいことになる。僕は想像して少し身震いした。
 1時間くらい歩いたころ、天井から光が差しているのが見える通路に出た。走ると危ないので、急いで歩く。光は僕たちが落ちたのと同じような穴から差していた。けれどそこから見える景色が、僕たちの落ちた穴から見えたものとは違う。細い木がたくさん見える。たくさんとは言っても陽が差し込んでくるくらいだから、背は高くないようだ。ここから見上げるとどのくらいの高さなのか見当がつかないけれど。
 とにかく叫んだ。助けを呼ぶためだ。今までエメリヒ・ノルデの中でこんな穴を見かけたことは無いし、そもそもこの遺跡があることも知らなかったのだから、人通りのあるところだとは思えない。それでももしかしらたら誰かの家の裏庭の隅っこの奥まった木立か何か、そういう場所かもしれない。そうじゃなくても――とにかく誰かに聞こえるかもしれない。
 でも結局僕たちの声は石で出来た奇妙な廊下に冷たく響いただけだった。誰かがひょっこり現れて梯子を下ろしてくれることを期待したけれど、どれだけ声を上げても誰も現れなかった。僕たちは疲れて腰を下ろした。陽が差しているので、苔は生えていない。
「今何時くらいかしらね」
「昼過ぎじゃないかな。太陽がまだ高いみたいだったし」
「お昼食べてないのよ、私。お腹空いたわ」
「そういえばクラッカーがあった」
 ポケットから取り出した袋詰めのチーズを挟んだクラッカーは、やっぱり粉々になっていた。メグは袋を開けてクラッカーの粉とチーズを口に流し込んだ。一粒もこぼさなかった。
「ポケットにクラッカーを入れてるなんて、子供っぽいとこあるのね」
「だから12歳だって」
 背が高いわけでも大人びた顔をしているわけでもないのに、メグはどうも僕を子供として見てくれない。服装も歳相応だと思う。
 自分の身体を見下ろして首を傾げていると、メグが話しかけてきた。「ここってどのへんだろう」
「歩いた方角がわからないから、なんとも言えないよ」
 僕たちが落ちた穴は街の外れにあった。打ち捨てられた小屋、屋根も壁も大部分が無くなっていて小屋と呼んでいいのかと疑問に感じるくらいにボロボロの小屋があって、その床に開いていた穴だ。それはずっとその小屋の地下倉庫か何かだと思われていた。倉庫への入り口は誰も見つけられなかったけど、そんなことを気にする人はいなかった。ボロ小屋の地下倉庫への入り口は土で隠れてしまったのだろうし、穴の開いた倉庫の中身に興味を持つ変わり者はいなかった。
 僕は猫を捜していた。街の路地で見つけた真っ白な猫。
 今日は学校は休みなので、僕は暇だった。親友のエミール・コルベは、街の西を流れるルーエ河に読書に行った。彼は渡し舟で河を渡るのが趣味という、少し妙なやつだ。舟の上で案内人のおじさんとのんびり過ごすらしい。だけど本は屋根で読むに限る。だいたい河を渡っている最中に雨でも降ってきたら、本が濡れてしまう。僕にはエミールの他にとりたてて友だちと呼べる人がいないので、彼がルーエへ行った休日は暇だ。
 路地を曲がるうちに猫を見失って、僕は外れのボロ小屋に来ていた。猫が隠れているかもしれないと思ってまわりを見渡しながら歩いていたら、穴に落っこちた。落っこちて目の前を見ると、メグが尻餅をついていた。彼女は落としたボールペンを捜していたらしい。それなら足元を見ていたはずなのに、なぜか落っこちたそうだ。どうしてボロ小屋に来たのかは教えてくれなかった。幸運なことにふたりとも足はくじかなかかった。そのかわりクラッカーが粉々になった。
「何しとるんじゃ、お前さんら」
 いきなりの声に驚いて立ち上がると、お婆さんがひとりいた。右手にカンテラ、左手にほうきを持っている。布を何枚も巻きつけたような奇妙な服装で、美人だけどなんだか怪しい。変な形の帽子をかぶっている。
「エメリヒ・ノルデの外れのボロ小屋で、穴に落ちたの。あなたは?」
「私はサビーネ・ハルトヴィク。お前さんら、外に出たいのか?」
 僕たちは頷いた。サビーネさんは出口がある方向を指差してくれた。礼を言ってメグがサビーネさんのことをもう一度質問したけど、彼女は何も答えずに迷路の暗闇に消えて行った。小さな声で子守唄のようなものを歌っていた。僕たちは顔を見合わせた。でも何もわからなかった。

 サビーネさんが教えてくれた方向へ歩いたけど、結局分かれ道があって出口にはなかなかたどり着けなかった。
「曲がる方向も教えてくれたらよかったのに。こっちに歩いてくることくらい、言われなくてもしたわよ」
 そこで僕は最後の手段に出た。
「迷路では右手か左手をずっと壁につけて歩けば出口に着くんだよ。出口があればだけど」
「あんたね」と前置きして、メグは僕をにらみつけた。「なんでそういうことをもっと早く言わないわけ?」
「子供と思われたくないなら、他人に無闇に何かを教えようとしたりしないことよ」
「12歳でしょあんた」
 休憩時間を抜いてさらに2時間ほど歩くと、出口に到着した。といっても想像通りの開けた出口ではなくて、梯子のついた穴だ。この迷路に入るには穴を下りるしかないのだろうか。僕たちは梯子を上った。メグはスカートだからと言って、僕を先に上らせた。
 太陽はもう随分傾いていた。昼の太陽と夕方の太陽の間、燦々とも煌々とも言えない光。
 そこは丘の裾近くだった。エメリヒ・ノルデの北東のほうは、丘陵地帯に繋がるなだらかな丘になっている。時計塔が見え、街の風景が見えた。微かな風がそよいでいる。空はまだ夕陽を迎える前のくっきりとした濃い青。景色は少しずつ見えにくくなってきている。家並みの灯がともりはじめた。公園で僕よりも小さい子供たちが遊んでいる。石畳の通りを犬が歩いている。かろうじて見える商店街は賑やかそうだ。
「こういうの、何て言うか知ってる?」
 僕は首を振った。メグは少し汚れたスーツを払ってから、こう言った。
「きらきら」
「意外に女性らしいところもあるんだね」
「ねえ、あんたほんとに12歳?」
「その通り」
 僕たちは坂を下った。

________closed.