森の音楽家

 

 エメリヒ・ノルデの西には、ルーエという名前の大きな河が流れている。商店街で買ったサンドウィッチと紅茶を持って、その河を渡るのが僕の趣味だ。今日は学校が休みなので、いつものようにハムとレタスとチーズのサンドウィッチと紅茶を買って、僕はルーエ河の桟橋へ向かった。空はよく晴れている。近所に住むロベルト爺さんは今日は雨が降ると言っていたけれど、雲ひとつ無い快晴だ。僕は愛用のキャップのつばを少し上げて、太陽に照らされてきらめく水面を想像した。
 商店街から河までの道は、僕の足ではけっこうかかる。温かい食べ物を買っても道中で冷めてしまうので、いつもサンドウィッチを買う。休日の半分を僕は河で過ごすので、サンドウィッチ屋のおばさんや、渡し舟の案内人(古い言い方だと、船頭というらしい)のおじさんともすっかり仲良くなった。
 急いで歩くとサンドウィッチが崩れるし、肩から紐で吊るした水筒がひどく揺れるので、河までの道はゆっくり歩く。途中に親友のイルセ・シュタイガーの家があって、残り半分の休日を僕は彼と過ごす。イルセは僕と同じ12歳なのに、随分大人だ。背は僕と同じくらいで、学校でも目立つほどではないけれど、彼は成績優秀でスポーツ万能、女の子によくもてる。けれど彼は僕以外のクラスメイトとほとんど話さないし、話したとしてもその日の天気だとか次のテストだとか教室の天井にあるシミの数だとか、そんな話しかしない。一種近寄りがたい雰囲気を醸し出しているけれど、別に無愛想なわけではない。彼の周囲の人々、彼の両親すら含めてだけれど、その人たちは彼をほとんど崇拝に近い目で見ている。それくらい彼は天才的で、普通の人間とは一線を画したところにいる。と思われている。実際友達付き合いをしてみればそんなことはないし、むしろ駄菓子屋で買ったチーズを挟んだクラッカーを2枚に分けてから食べるようなひとだ。
 その彼が僕の親友になったのは、僕の読書好きが彼に知れたからだ。
 シュタイガー家の前に来た。イルセと交わす会話の準備をしてきたわけでもないので、僕は2階にあるイルセの部屋の窓を見上げただけで通り過ぎようとした。でもその時その窓が開いて、聞き慣れた声が降ってきた。
「旅人よ、なにをそう急ぐのか? 天地は不動のもの、そなたからは逃げはすまいよ」
 立ち止まって振り返ると、開いた窓の桟に座ったイルセが、白いシャツの袖から出た右手をひらひらと振っていた。
「やあ」と僕は言った。
「やあやあ」と彼は言った。
 イルセは左手に持っていた黒いカバーの本を桟に置いて、窓から外へ出た。窓のすぐ下には突き出た屋根があった。その屋根の下には玄関の扉がある。
「ブルーベリーのアイスクリームが好きなんだけど、さっき買いに行ったら売り切れだったんだ」
 屋根に腰を下ろしてイルセがそう言った。僕は頷いた。
「時計塔広場の喫茶店にあったと思うよ、ブルーベリーのアイスクリーム。飲み物とセットで注文すると少しお得なんだ」
「あそこの店長は少し変人だろ?」
「まあ、そうかもしれない」
 喫茶店の店長と親しいわけでもないから、彼の変人ぶりはあまり知らない。しかし少なくとも噂ではそういうことになっていた。街の住人のほとんどは時計塔広場の喫茶店へ行ったことがあるはずなので、店長のせいで喫茶店から客が遠のいてるわけでもない。つまり僕の考えでは、喫茶店の店長とイルセは変人ぶりでは同程度なのではないだろうか。嫌われないような部類の変人だ。
「で、君は例によって、河に行くの?」
「うん、君も一緒にどう?」
「遠慮しておくよ、ブルーベリーのアイスクリームと変人の店長が待ってるから」
 僕は笑って頷いてから、軽く手を振った。イルセも手を振って屋根に寝そべり、黒いカバーの本を開いた。しばらくしたら喫茶店へ行くのかもしれない。
 桟橋に着くと、ハックスさんがいつものように釣りをしていた。ハックスさんはお客が来るまで、桟橋の縁に座って魚籠を傍らに置き、のんびりと流れに釣り糸を垂らしている。釣果がどんなものなのかを聞いたことは無いけれど、少なくとも毎日数匹は釣れているみたいだ。僕が河に来た時は、たいていいつも魚籠に魚が入っているから。声をかけると、ハックスさんは釣り糸を水面から上げた。
 ルーエ河の渡し舟は、ほとんどボランティアで運営されている。子供でも払える料金だから、僕はしょっちゅう河を渡ることができる。ハックスさんはオールを漕ぎながらいろいろな話をしてくれる。僕は魚や空や歴史やスパイスの話を聞きながら、河の向こうに広がる森を眺める。サンドウィッチと紅茶を昼食にし、ハックスさんがくれるお菓子(今日はスコーンだった)と僕の紅茶で、一緒にお茶をする。それからオールを休めて、ルーエのゆったりした流れに任せてボートを進ませる。太陽が傾き始めるまで、ハックスさんは釣りをし、僕は本を読む。船渡しと言いながら、いつも対岸には渡らない。河を下って、時間が経つと上って、桟橋に戻ってくる。それがいつものコースだ。
 けれど今日は僕は、森へ行きたいとハックスさんに言った。なぜそんな気持ちになったのかはよく分からない。来る途中でイルセに会ったのが初めてだったからかもしれないし、持って来た本のタイトルが『あまりにも短い音』だったからかもしれない。ハックスさんは迷子になるかもしれないと注意してくれたけれど、僕はどうしてもひとりで行きたかった。あまり深入りしないことを約束すると、ハックスさんは森側の岸につけたボートのそばに立って、心配そうに僕を見送ってくれた。2時間経つと迎えに来てくれるそうだ。
「気をつけなさい、グリュンヴァルトは広い」と彼は言った。

 時計塔から眺めた時の記憶が確かなら、グリュンヴァルトの深いところには湖がある。湖は空を綺麗に映して鏡のようだった。
 森は静かだ。僕には木の種類は分からないけれど、様々な形の葉を持った木々が立ち並んでいる。下草に混じってベリー類や薬草、花もちらほら見える。野生のハーブが茂っているところもあった。陽が高いので木漏れ日も暖かい。小さな動物が草むらを揺らしたり、鳥が頭の上をさえずりながら飛び交ったりした。グリュンヴァルトは広く、深い。明るいひなた、河に近いこのあたりには危険は感じられないけれど、湖に近づくにつれて、そして陽が傾くにつれて、徘徊する夜行性の獣に遭遇する確率も上がるのだろう。
 この森は街にすごく近い。なにせ河をひとつ渡ればそこが街なのだから。だというのに、この森にはあまり人がいない。エメリヒ・ノルデの人々は森を神聖視しているところがある。信仰の対象として崇めているわけではないけれど、やたらと足を踏み入れることを、ほとんど自発的に禁じている。人間が入ることで森が騒がしくなると考える人も多い。グリュンヴァルトはエメリヒ・ノルデの西に静かに広がり、エメリヒ・ノルデはグリュンヴァルトを東から静かに眺める。聖域と呼ぶのはいきすぎな感じがする。でもそれはあながち見当はずれな呼び名ではないかもしれない。うまくは説明できないけれど。神聖視、つまりそういうことだ。
 森を歩くというのは、心身にとても良いらしい。自然の香気を吸い込み、さえずる鳥たちの声を聞き、風に乗って流れる葉鳴りの音を感じていると、確かにそんな気がしてくる。なによりどこに目を向けても緑色が見えるというのが良い。靴の裏に伝わる土の感触も、なかなかのものだ。煉瓦で舗装された道より、土の道のほうが足が疲れないと言う人がいる。その逆だと言う人もいる。ロベルト爺さんが前者で、学校のルーベンス先生が後者だ。僕にはどちらが正解かは判らない。
 それにしても、綺麗な森だ。雨が降ったわけでもないのに緑は瑞々しく、そこらに生えているただの下草すらも、じっと観察していると呼吸しているように思えてくる。風が通ると常緑樹の爽やかな香りが漂う。
 見上げた枝にリスがいた。僕を見ている。まるで童話の挿絵のように、そのリスは大きな木の実をお腹の前で抱えている。しばらくじっと見つめ合ったあと、リスがゆっくりと歩き出したので、僕はその方向に進んだ。森にはあまり人が入らないから、道らしきものはほとんど出来ていない。この広大な森が材木用に切り倒されないのは少し不思議に思うけれど、昔からの風習とはそういうものなのだろう。リスが進んだのは、かろうじて道と呼べるかもしれないような草の生えていない筋から、少し逸れた方向だった。
 リスはもしかしたら、僕がついてくるのをわかっていたのかもしれない。あるいはわざと僕がついていける速度で、枝から枝へ渡っていたのかもしれない。上を向いたまま走ることが出来るほど、足元が開けてはいなかった。
 いつの間にか、時間の感覚が薄れていたのだと思う。リスを追いながら視界に木漏れ日を感じていたはずの僕は、その色が透明から黄色になり、やがて橙色になっていったことに気づいていたはずだ。だけどその変化を変化として捉えられていなかった。その時見えた光が橙色でも、僕はその時光は当然その色であるべきだと確信していた。昼下がり、夕方といった観念が欠けていた。
 僕は、湖畔に立っていた。

 水面は傾いた光を受けて揺れている。風から生まれた波が、夕焼けを濃く淡く反射している。間近で見る湖は、うしろに横たわる森と同じに思えるくらい広大だった。中央あたりを、なにか白い鳥の親子が泳いでいる。浅いところに魚の影が見えた気がした。魚は虹色に見えたけれど、実際は灰色だろうと思う。魚というものはたいてい灰色なのだ。ハックスさんが言っていた。
 足元の石を投げた。石は水面から3本突き出ている木の枝のようなもののあたりに落ちた。湖から木の枝が生えているなんて、わけがわからないけれど、水がたくさんあるところにはああいうものがよくある。ルーエ河にもあるし、学校の池にもある。とにかく石はそのあたりに落ちて、そして僕の近くから声が聞こえた。
「おやおや、魚に当たったらどうするんだい。痛くて泣いちゃうよ?」
 白いタキシードに白いシルクハットの人物が、水際の岩に座っていた。ひげを生やしていると思ったけれど、生えていなかった。タキシードの人物は湖を見ていた。左手に大きな、しかし厚くはない本のようなものを持ち、右手には細い棒を持っている。僕は思った。本を持っている人によく会う日だ。
「魚が泣くと貝殻が生まれるんだよ」
 僕は想像してみた。魚が泣く。涙が流れる。涙が湖の水に混ざる。けれどそこから先は見当がつかなかった。貝殻が生まれる?
「君の名前は?」首をひねっていると、タキシード氏が尋ねてきた。
「エミール・コルベ。あなたは?」
「人呼んで、流星の狼」
「うーん」
 タキシード氏はどう見ても狼らしくはなかった。どちらかと言えば猫だし、もっと言うなら百葉箱だ。
 僕と百葉箱氏は、しばらく話をした。街の話、河の話、森の話、それから紅茶の話と、『あまりにも短い音』の話をした。百葉箱氏はそのどれについても、僕より博識だった。『あまりにも短い音』のことを詳しく知っている人がいたのは、かなり意外だった。あまりにも人気が出ない作家の本なので、僕が生まれる前に絶版になったのだ。イルセもこの本のことを知らなかった。
 それから百葉箱氏は、僕が百葉箱さんと呼ぶと驚いた。まあ当然かもしれない。
「百葉箱と呼ばれたのは初めての経験だな。ボールペンとか巾着袋とか呼ばれたことはあるけど」
「ボールペンとか巾着袋?」
「流行ってたのさ」
「うーん」
 ボールペンとか巾着袋のような百葉箱氏を想像しようとしたけれど、これは魚の涙から貝殻までを想像するよりも難しかった。なんだか今日は妙なことでばかり頭を捻っている。
「よし、ではそろそろ始めよう」
 空を見て、次に僕を見た百葉箱氏は、手を打つと同時にそう言った。どこか得意げだった。
 百葉箱氏は左手の本を開いた。それは本ではなくて、実はスコアだった。楽譜だ。音楽に通じていない僕にはさっぱりわからない。本が楽譜だったということは、棒はたぶんタクトなのだろう。そのタクトが振られた。湖の波がガラスのように静まった。
 まず足元の草が鳴った。草の細い細い葉脈がハープの弦になったような、繊細な音だ。次に岩が鳴った。こちらはその重みで太鼓を打ち鳴らすような重厚な音。次に風が軽やかなヴァイオリンの伴奏になり、森が深緑のベルでリズムを刻み、そして湖が主旋律を担った。ガラスで出来たフルートのような、澄んだ音色だ。百葉箱氏の振るタクトに合わせて、世界が歌っているようだった。
 僕は知らぬ間に両目を閉じていた。まぶたの裏の闇を見つめていると、夕陽に包まれた音楽隊が奏でる音楽によって、自分の身体が浮かんでいくように思えた。僕は草のハープを、岩の太鼓を、風のヴァイオリンを、森のベルを、湖のフルートを聴いた。肌触りの良いシーツに包まって、柔らかなベッドで眠るような心地よさだった。演奏はクライマックスを迎えても音を張り上げすぎることなく、空の下で反響することもなく、ただ広々と響き、優しく通り過ぎていった。
 演奏が終わって、僕はまぶたを上げた。そこは湖畔ではなくて、グリュンヴァルトとルーエの境だった。混乱して見回すと、駆け寄ってくるハックスさんがいた。
「いったいどこにいたんだ、エミール。こんなに暗くなるまで」
「僕にもよくわからないんだ」
 僕はハックスさんに、遅くなったことと心配をかけたことを謝った。ハックスさんはそれよりも早く帰って親御さんを安心させてあげなさいと言った。僕は頷いて、ボートに乗り込んだ。ボートはいつもより速いスピードでルーエを遡った。僕は百葉箱氏と音楽のことを考えていた。
「ねえハックスさん、魚が泣くと貝殻が生まれるって知ってる?」

________closed.