時計とオルゴール

 

 私はニナ・ローエンハイム。11歳、小学生です。今私は、4時限で終わった学校から帰ってきてお家の前に立っています。お家の屋根に鳥がとまっています。体が白くて翼が黒いです。あれは何という鳥でしょう。鳥はどうしてあんなにきょときょと動くのでしょう。屋根にとまって、きょときょと動いて、突然飛び立つ鳥は、何を思うのでしょう。
「あなたはそこで何をしているの?」
 白黒の鳥さんは答えてはくれません。しばらく見つめていると、彼は飛び立ちました。時計塔の方へ向かったようです。彼が見えなくなったころ、時計塔から鐘の音がひとつ、聞こえてきました。もしかしたら彼は、エメリヒ・ノルデのみんなにお昼の1時を知らせるために、鐘を鳴らしに行ったのかもしれません。お腹が空いたので、私はお家に入りました。
「ただいまー」
「おかえりなさい。お腹空いた? スープを温めてあげるわね」
「うん」
 靴を脱いで玄関を上がり、ダイニングへ行きました。学校が4時限で終わる日、お母さんは私と一緒にお昼ご飯を食べてくれます。おじいちゃんも一緒です。今日のお昼ごはんは昨日の残りのトマトスープと、おじいちゃんが商店街で買ってきてくれたパンです。いろいろ種類があります。バターのパン、ジャムのパン、黒ゴマのパン、サラミのパン、ソーセージのパン、たまごのパン。私はジャムのパンにしました。
「おじいちゃんはどれを食べるの?」
「サラミとたまごにしようかの」
「どうして黒ゴマは食べないの?」
「お母さんが食べるんじゃないかの」
 キッチンでお母さんが野菜を切っている音がします。スープとパンに、サラダも加わるみたいです。私はお母さんの手作りドレッシングが好きです。サラダを盛った器と取り皿とスープとスプーンとフォークを、私とお母さんが運びました。おじいちゃんは準備が出来るまでの間、テーブルでオルゴールを見ていました。おじいちゃんはオルゴール職人です。
 お母さんは黒ゴマのパンを食べました。スープは少し味が濃くなっていたので、お水とバターを少し足したのとお母さんが言いました。私はお料理の極意を見つけました。
 ご飯を食べながら、白黒の鳥さんのことを話しました。するとおじいちゃんが昔北の港町で見た不思議な白黒鳥のことを話してくれました。その鳥は体が白くて翼が黒くて、毎日お昼の1時になると必ず港で一番大きな船の舳先にとまり、高い声で鳴いたそうです。誰かが捕まえようとしても絶対に捕まらなくて、1時まで舳先で待っていても、1時になる直前に必ず何かが起こって鳥を捕まえるどころではなくなったのです。
「それでの、ある日おじいちゃんはその鳥が自分の真上を通って飛んでいくのを見たんじゃ。追いかけたんじゃが太陽が目に入っての、見失ってしもうた。けどその時、空からオルゴールがひとつ落ちてきたんじゃよ」
「そのオルゴールはまだあるの?」
「残念ながら失くしてしもうた。ずっと昔にの」
 おじいちゃんはそのオルゴールがきっかけで、職人を目指したのだそうです。そのオルゴールは美しい音色を奏で、その音色は「人魚の歌声」と呼ばれました。

 お昼の後片付けが終わると、おじいちゃんが散歩に行こうと言いました。私は学校のカバンを部屋に置いて、おじいちゃんとお家を出ました。
 エメリヒ・ノルデの目抜き通りには、たくさんの露店が出ています。街の中心にある時計塔広場に近づくほどお店が増えます。露店ではいろいろな物が売られています。中には私には何に使うのかわからない道具や、ちょっと変なにおいのする薬もあります。そういうところはなんだか怖いので、ひとりの時は急ぎ足で通り過ぎます。でも今日はおじいちゃんがいるので、のんびり歩きます。
「あのぶら下がっているのは何?」
「あれはトカゲじゃな。干しとるんかの」
「トカゲさんを干して、どうするの? 食べるの?」
「乾燥させて薬にするんじゃよ、多分の。わしもよう知らん」
 私はおじいちゃんが好きです。おじいちゃんは物知りで、私にたくさんのことを教えてくれます。手先が器用なので、商店街や木材屋さんで材料を買ってきては私にいろんなものを作ってくれます。ぜんまい仕掛けのおもちゃやランプ、それにもちろんオルゴールも作ってくれます。おじいちゃんのオルゴールは、もうお店では売っていません。少し前に引退したからです。だから今、そんなに高い値段がついているわけではないですけど、おじいちゃんの新作オルゴールは貴重です。私の部屋のチェストには、おじいちゃんのオルゴールが3つ並んでいます。
 商店街を通り抜けて、時計塔広場に着きました。私はこの場所が好きです。この広場の北と南に目抜き通りが走っているので、ここにはいつもたくさんの人がいます。ベンチに座っている人、芝生で本を読んでいる人、追いかけっこをする私と同じくらいの子たち、商店街を歩いて来て休憩している人や、この広場に面している新聞社に入っていく人、時計塔を登る人、喫茶店に入っていく人。本当にいろんな人がいて、賑やかだけど騒々しくなくて、噴水があって、花壇があって、木があって、小鳥たちがいて、犬がいて、なんだか素敵なんです。私もおじいちゃんも少し疲れたので、ベンチに座りました。
「新聞社の記事を書く人、知り合いなの」と私が言うと、おじいちゃんは「ほう」と相槌を打ってくれました。
「平日に喫茶店でのんびりしてるの。でもその日はお兄さんはお休みだったの。だけどスーツを着ていて、エメリヒ・ノルデを観察してるの。田舎の出身なんだけど、エメリヒ・ノルデが好きで、ここで新聞を書いてるの」
「そりゃまた変わった人じゃな」
「でもエメリヒ・ノルデが好きなのはいいことだと思う」
「そうじゃの」
「ルーエ河のお魚が好きなんだって」
 そのお兄さんはユウ・タチバナという名前です。あまり聞いたことの無いような感じの名前です。田舎ってどのあたりなのか、聞いておけばよかったです。
 そんなことを考えていると、おじいちゃんも黙ってしまいました。なんだか静かです。どうしたのかなと思っておじいちゃんを見てみると、上着の内ポケットから懐中時計を取り出して見つめています。丸くて黄色くて鎖のついた、普通の懐中時計です。おじいちゃんはその時計を、黙ってじっと見つめています。少し伸びた口ひげが風にそよいでいます。いいお天気です。
 私は木の影を見ていました。木漏れ日ができるのはどうしてでしょう。木の葉はあんなにたくさん茂っているのに、どうして完全な影にならないのでしょう。もしかしたら光が木の葉をよけるのかもしれません。光の精が太陽から下りてきて、木の手前で身構えるのです。そして木の葉が風に揺れて道が開いた瞬間に駆け抜けるのです。私はその空想に納得しました。そしてしばらくして、おじいちゃんが言いました。
「喫茶店に入ろうかの」
「うん」
 時計塔広場に面した喫茶店は、掃き出しの大きな回転窓があって、光をたくさん店内に取り込んでいます。内装はオレンジ色で、ジャズが流れていて、落ち着いた雰囲気です。タチバナさんと知り合ったのがこの喫茶店です。街のみんなから「マスター」と呼ばれている店長さんは、変わった人なのだそうです。だけどこうして席に座って見ていると、普通の男の人です。
 私はチーズケーキとレモンティーを注文しました。おじいちゃんはコーヒーだけです。ここのメニューはどれもとても美味しくて、好きです。マスターがチーズケーキとレモンティーとコーヒーを運んで来てくれました。
「お嬢さん、このチーズケーキはね、今までで最も良い出来かもしれないよ。味見をしたバイトくんが背中に翼を生やして旅立ったくらいだからね」
「私もチーズの翼で光の精と遊びに行くわ」
「ちょうちょネズミに気を付けるんだよ。彼らはチーズの翼に目が無いから」
「やれやれ。マスター、うちの孫に布教しないでおくれよ」
「おやローエンハイムさん、お腹の中でコーヒーが春の猫に変わっていますよ」
「春の猫?」
「幸せ満点のシンボルです」
 マスターさんはいい人だと私は思いました。

 おじいちゃんは喫茶店でも、懐中時計を何度も見ていました。普段、おじいちゃんはあまり時間を気にしません。おじいちゃんが時間をかけてコーヒーを飲むので、私もゆっくりとケーキを食べました。しばらくしてケーキもレモンティーも無くなったので、私は外を見ていました。新聞社にはたくさんの人が出入りしています。タチバナさんがいるかなと思って見ていましたが、遠いのではっきりとは判りませんでした。時計塔から管理人のおじさんが出てきました。おじさんは腰を伸ばして背中を反らせ、時計塔の頂上にある鐘を見ています。もうすぐ4時です――鐘が4つ鳴って、エメリヒ・ノルデが少しだけ静まります。
「ニナ、もう少しだけ付き合ってくれるかの」
「うん」
 喫茶店を出た私たちは、すぐ横の路地に入りました。私はこの道をあまり知りません。向かっている方向は、お家の方です。だけど途中で少し道を逸れて、お家に向かうのとは違う方向になりました。おじいちゃんは黙っています。
 おじいちゃんが立ち止まったのは、時計屋さんの前でした。こんなところに時計屋さんがあるなんて、私は知りませんでした。お家からけっこう近くです。時計屋さんは少し暗いです。中にはたくさんの時計があります。店先のガラスショーケースにも目覚まし時計や置時計のレプリカが並べられています。おじいちゃんは少しの間入り口の前でじっとしていました。
 扉を押し開けて中に入ると、おじいさんが独り、奥に座っていて、いらっしゃいと言いました。私はお邪魔しますと言いました。お店の中には本当にたくさんの時計があって、チクタクという針の音に満ちています。だけどこれだけ時計があっても、時間が針の音で埋まってしまうことはありません。木漏れ日と同じように、かすかな隙間があるのです。時間の精が音の間を狙って通るのかもしれません。
 大きいのや小さいの、木でできたの、金属性の、いろいろあります。私よりずっと背の高い柱時計もあります。鳩時計もあるかもしれません。だけどさっき4時をまわったところなので、鳩は出てきそうもありません。
「どんな時計をお探しですか?」
 店主さんがおじいちゃんに言いました。おじいちゃんはお店に入ってから1歩も動いていません。足の少し前の床を見つめています。こんなにだんまりなおじいちゃんを見るのは初めてです。おじいちゃんは返事をせずに、顔をあげて店主さんのところへ行きました。少し心配です。私はおじいちゃんを見つめていました。
 おじいちゃんは何も言わずに、カウンターに懐中時計を置きました。それを見た店主さんが、驚いたように声を上げました。そして時計とおじいちゃんの顔を交互に見ています。私からはおじいちゃんの顔は見えません。しばらくして、おじいちゃんが言いました。
「すまんかった、マンフレッド」
「本当にお前なのか、ロベルト!」
「ああ、そうじゃ。今更、お前さんに合わせる顔が無いのはわかっとる。じゃがもう一度、作ってみたいんじゃ。お前さんと一緒に、オルゴール時計を」
「何を言っとる! よく戻ってきてくれた。お前だけだ、5人の中で、戻ってきてくれたのはお前だけだ。別れた6人の中で、こうして再会できたのは2人だけだ!」
「マンフレッド、すまんかった」
 店主さんは涙を拭きながら、カウンターの下から何かを取り出しました。それは白黒鳥のレリーフが施された箱です。私も近くへ行きました。店主さんが蓋を開くと、とても綺麗な音色が流れ出しました。おじいちゃんが懐中時計の鎖を外して店主さんに渡しました。店主さんは手早くそれを分解して、箱の中に取り付けました。懐中時計の針の音が、初めて聞こえました。
「お孫さんかい、ロベルト」
「ああ。わしの可愛い孫じゃよ。ニナ、ご挨拶しなさい」
「はじめまして、ニナ・ローエンハイムです。おじいちゃんと仲良くしてあげてください」
 店主さんはにっこり微笑んで、言いました。
「ロベルト、ふたりでやり直そう。まだ時計とオルゴールの針は錆びついとらん。俺たちがやり直せば、4人も戻ってくるかもしれん」
「そうじゃな……。『白黒鳥のオルゴール時計』、経営再開じゃの」
「ああ――のんびりと、ゆっくりとな」
 ふたりのおじいちゃんは笑っていました。時計の針とオルゴールの針が、それぞれの音を奏でています。

________closed.