新聞記者の休日

 

 僕はテーブルに置かれたコーヒーカップを手に取った。取っ手がまだほんのり温かい。口につけるとカップの縁が思いの外熱く、瞬間僕はカップから口を離した。気を取り直してコーヒーを啜る。深く煎られた豆から淹れられたそのコーヒーは、思わず感嘆の声が漏れるほどの美味さだった。一口含んだだけで、コーヒーに対する、これを淹れた人の愛情が感じられた。僕はカウンターに目を遣り、椅子に腰掛けたままでグラスを磨いている、この喫茶店の店長らしき男性を観察した。
 彼は若く見えたが、物腰が奇妙なほどに落ち着いていた。背丈はそれほど高くないようだ。彼は僕がこの店に入った時からずっとカウンターの向こうに座っていたから、このコーヒーは彼が淹れたのではないのだろう。さきほどこれを運んできた学生らしき少女か、あるいは厨房で調理器具を扱っている青年か。コーヒーを淹れる仕事がこの店ではどこで行われているのかが判らなかったので、ふたりのどちらがこれを淹れたのかの判断はつかなかった。といっても、それはさしたる問題ではない。僕がこの店に好感を持ったことに違いは無かったからだ。
 店長らしき男性から視線を外し、斜め上の天井を見上げた。そこでは大きめの白いファンがゆっくりと回っている。やや褪せたようなオレンジで統一された内装の間を、古いジャズが流れている。店の片隅に置かれた、なんともクラシカルなジュークボックスが演奏しているようだ。昼前というには少しばかり早い時刻。街の中央に位置する円形の広場に面したこの店は、その前面が掃き出しの回転窓になっていて、45度に開かれたそのいくつもの大きな窓から差し込む光は、この洒落た店に、憩いの雰囲気を加えている。
 上へ向けていた顔を下ろした。広場に聳える、街で最も高い建物である時計塔の鐘が、午前11時を告げた。
 向かいの椅子にちょこんと腰掛けている少女は、くるくるとした大きな目で僕を見つめていた。10歳ほどだろうか。肌は白く、髪は肩までのややブラウンがかった黒で、癖毛だろうか、緩いウェーブがかかっている。瞳の色はよく光を反射する、艶のある漆黒。誰が見ても、可愛らしいと形容するであろうことは疑い無いような少女だ。年相応の幼い服を着てはいるが、仕立ては上等に見えた。親の趣味が良いのだろう。
「僕は新聞記者なんだ」
「新聞を書くひと?」
「うん、そう。書く以外にも情報を集めたり紙面の……えーと、まあデザインを考えたりもするけど、書くのが主な仕事かな」
 僕は少女に解り易いように、言葉を選んで話した。少女はふんふんと納得したように頷き、その動きの続きのようにフォークでチーズケーキを切り分け、口に運んだ。美味しかったのか、僕にも一口勧めてくれたが、丁重にお断りした。残念そうに少しだけ眉を動かすと、彼女はレモンティーを飲んだ。
「どうして新聞を書くの?」
 難しい質問だった。
「うーん。どうしてだろうね。それが仕事だからっていうのが一番簡単な答えだけどね。世の中のことを知りたいひとがたくさんいるからかな」
「どうして世の中のことを知りたいの?」
「まわりの流れとか動きに置いて行かれたくないからじゃないかな」
 ふんふんと頷いて、少女はチーズケーキを食べる。しばらく僕たちは、黙ってコーヒーを飲み、チーズケーキを食べ、レモンティーを飲んだ。そしてカップが空になる。
「ところでさ、君はどうしてそこにいるのかな」
「不思議なことを探していたの」
 少女の言葉の意味がしばらく理解できず、僕は空になったコーヒーカップを、もう一度持ち上げてコーヒーを飲もうとした。もちろんコーヒーは無かった。
「不思議なことって?」
「世界には、私の知らない不思議なことがたくさんあると思うの」
 確かにその通りなので、僕は頷いた。
「だから不思議なことを探してるの」
「そこが解らないんだけど……」
「今日は不思議なこと、もう見つけたわ。平日に喫茶店でのんびりしてるスーツのお兄さん」
「ああ、僕のことね」
 こくこくと首を縦に振る少女に苦笑して、僕はカップを戻した。アルバイトの少女と青年がこちらを訝しげに眺めているのが分かった。

 喫茶店を出た僕の隣を、少女が歩いている。街の暖色の多い建物の壁で挟まれたストリートは、大抵が煉瓦か石で舗装されている。正午に近づいた日差しが、背の低い街の建物の短い影を、広い通りに刻んでいた。
 彼女はあれこれと僕についてのことを質問した。例えばどうして新聞記者になったのかとか、どうして僕のかけている眼鏡は縁がネイビーなのかとか、どうして平日にスーツを着ているのに喫茶店でのんびりしていたのかとかだ。最後の質問に答えた時、僕はこの子にとって不思議ではなくなったのではないかと思ったが、そういうわけでもないらしい。
「じゃあお兄さんは、今日はお休みだけどお仕事なの?」
「仕事というほどのものでもないけどね。ただ休みを貰えた日は街を歩いて、その日のこの街を観察することにしているんだ」
 少女はふんふんと頷いた。スーツに関しては、着ている方が気が引き締まるからだと説明した。僕とてもちろん、いつでもスーツを着ているわけではない。少ないが、休日を休日らしく過ごすこともある。とはいえ街の様子を観察するのが、近年は僕にとっての休日らしい休日と化していた。
 時計塔の鐘が午後0時を知らせた。僕は少女の歩調に合わせてゆっくりめに歩いた。様々な露店の並ぶ商店街を通り、昼食にパンとソーセージとサラダを買い、少女に僕と同じパンとスープを買った。商店街の広い通りに並ぶテラス風の屋外スツールに腰掛け、テーブルについてそれらを食べた。周囲でも同じように、思い思いの品をテーブルに広げた人々が談笑している。食事だけでなく、テーブルゲームや読書などにも使われる空間だ。
「どうして時計塔の鐘は、夜には鳴らないの?」
「みんな寝てるだろ?」
 頷いた少女は、スープを行儀良く飲み干した。知りたいことがまだまだ多くあるようで、少女はその視線をひとところに留めることが無かった。辺りを見回しては何かに気づき、すぐに納得したように頷く。きょろきょろしてはその仕草を繰り返す少女が、僕の目には最大の不思議だった。例えば小鳥が飛び立ったのに驚き、その羽ばたき行く先を見つめて頷いている。
 昼休みのころなので、多くの人がこの商店街で食事をしていた。僕は少女の父を名乗るには若い年齢なので、周囲からの視線にやや奇異の念が混じっているのを感じた。確かにスーツの若い男と、控えめに言っても挙動不審な少女との組み合わせは、何かしらの誤解を招かないでもないかもしれない。自分と少女の食べたあとの容器を持って、僕は席を立った。

 河へ続く道を歩きながら、今度は僕のほうから少女に質問をしてみた。
「君はどうして僕と一緒にいるんだい?」
「はぐれたら迷子になっちゃう」
「知らないひとと一緒にいること自体、迷子よりも危ないんじゃないかなぁ」
 唸る少女に、知らない人について行ってはいけないと諭し、そのまま河へ向かった。
 河の名はルーエという。街の西側を北から南に向かって流れる、そこそこ広い河だ。水量が多く、対岸には広い森が広がっている。つまりこの河が、街と森の境界線になる。橋は架かっていない。その代わり渡し船が出ていて、細長いボートが森と街を繋ぐ。そのボートが停泊する桟橋は幅広で、ここにも幾つか露店が出ている。休憩できる小さなロッジのようなものもあり、河を眺めての一服にはもってこいの場所だ。僕たちはその小屋で、また椅子に座ってとりとめのないことを話していた。
「この河で獲れる魚、美味いよね」
「私はシチューに入った魚が好き」
 子供らしい意見だ。
「お兄さんは、この街で生まれたの?」
「ああ、いや、ここと比べればかなりの田舎で」
「どうしてこの街に来たの?」
「好きなんだ、ここが。この静けさ、この河、あの森、時計塔、広場、商店街、建物、そしてこの街の人々。この穏やかな街が好きなんだ。『朝陽の似合う街、夕陽を贈る街』と、他所のひとは言う。本当にその通りさ。朝と夕暮れのこの街は、すべての光が美しい影を生み出して、感動的に綺麗だ。僕は好きなんだ、このエメリヒ・ノルデが」
「だからここで新聞を書くのね」
「当たり」
 少女はこくこくと頷いて、満足そうに微笑んだ。それから僕たちは河辺でこの街について語り合った。少女は幼いながらに、この街を愛しているようだった。
 やがれ夕暮れがやって来て、僕たちは街に戻った。
「ひとつ訊いていいかい」
「なあに?」
「君の名前はなんていうの?」
「ニナ・ローエンハイム。お兄さんは?」
「ユウ・タチバナ」
 僕たちは笑って、こくこくと頷きあった。
 商店街に差し掛かると、少女は僕から離れ、家へ帰ると告げて去っていった。彼女は笑顔で僕に手を振り、また遊んでと言った。少女の姿が見えなくなってから、そういえば学校はどうしたのだろうと思い当たった。時計塔の長い影が僕に覆いかぶさっていた。エメリヒ・ノルデが、夕陽を贈る。

________closed.