真昼の紫月

 

 そろそろ、秋風が吹き始める季節だ。山の木々は紅に染まり、麓に住む人々はその衣服を生地の多いものへと変えてきている。
 辺境の村、オーリン。王都から遠く離れたこの村は、名産のオーリン染めによる布と、豊かな山の幸や農作物で築かれた。村人のほとんどは生涯村を出ることはなく、静かに、慎ましやかな毎日を暮らしている。そののんびりした気風のため、王都や商都から、忙しい日々に疲れた人々がわざわざ足を運ぶこともある。村人たちは、そしてそういった者たちを歓迎し、もてなし、自然の恵みの大いなる事を共に喜んだ。
 朝、オーリンの村に一台の馬車が向かっている。
 黒塗りの、頑丈そうな馬車である。装飾は煌びやかでありながら、どこか厳格さ、そして質素さを感じさせる。牽引する2頭の馬は、ともに黒毛。大柄なその体躯でもって、重厚な馬車台をどうということもなく牽いている。
 蹄鉄の音に気付いたのは、村で宿を営む家の息子だった。もっとも、宿と言っても名ばかりで、滅多に客が訪れることはない。そのため、普段は狩猟や野良仕事で生計を立てている一家である。
「……おー。ありゃひょっとして、お客じゃねーの?」
 今年で14になる少年は、村の入り口付近で目の上に掌をかざし、瞳を細めて呟いた。
 向かってくる馬車は、一見して貴族のものと分かった。あるいは、どこかの大商人か。それくらいに豪奢な造りの、しかし彼らのように自給的な生活の者にとってはそれほどの憧憬には値しない、そんな馬車である。
「ほほう。つまりあれだな。がっぽり稼ぐチャンスってわけだな!」
 早口で独り言をまくしたて、彼は一目散に自分の家へ向かった。

 村人に案内されたのは、他の家々と特に変わったところのない家だった。強いて言えば、軒先に『宿屋 白鹿亭』という看板が提げられていたことぐらいか。その看板は綺麗に磨かれていたが、その他の部分は普通の家と同じだ。
「ふむ。ここが村一の宿ですか?」
「ええ。というより、村にひとつしか無い宿ですな」
「……なるほど」
 質問に答えたのは、彼ら一家をこの『宿』まで連れて来た村人だ。村人は、ここは豪華なベッドや贅沢な料理は無いが、手入れの行き届いた部屋と温かい郷土料理とで、訪れた旅人たちをいつも満足させている宿だと説明し、自分の仕事に戻っていった。
「あたし、もっときちんとしたリゾートホテルがよかったな」
 隣――つまり彼と妻の間で愚痴を吐いているのは、彼の娘だ。商都シュメルツの大商人、ホーリィウォール家のひとり娘。わがままに育てたつもりはないが、これまでの生活からすれば当然の要求かもしれない。
「私たちはこの村に何をしにきたのだったかな、レノリア?」
「えと……休憩?」
「そうだ。心と身体を休めに来たんだ。旅人に評判だという、この村にね。だというのにここにホテルがあって、そこに泊まったらいつもと変わらないだろう?」
「あ、そっか」
 納得したらしい14歳の娘に、彼は微笑んだ。まだまだ背も低く、長身な彼の胸より少し上あたりまでしかない。だが彼女は歳の割に聡明で、物分りの良い娘だ。これは親ばかではないはずだと彼は思っている。いつものドレスではなく、動きやすそうなサマーセーターとパンツに身を包んだレノリアは、その瞳を扉へ――あるいは扉の向こうへと、好奇の輝きを従えて向けている。
 扉を押し開けて中へ入ってみると、秋らしく装飾された光景が広がっていた。中でも、壁に掛けられた枯葉のリースが目を引く。決して派手さはないが、落ち着いた包容感がそこにはあった。
「あ、いらっしゃいませ〜」
 扉につけられたベルが鳴る音を聞きつけ、宿の主人らしき男がカウンターの奥から出てきた。なるほど、人の好さがその表情に表れている。
「4名様ですね。こちらへどうぞ〜」
「うん?」
 カウンターから出、客室へ案内しようとする主人にふと疑問を覚える。
「なぜ4人だと分かったのです? まだ他に連れがいるかもしれないのに」
「え? ああ、さっき息子が教えてくれましてね。お客様の乗ってこられた馬車を見つけたようで。目が良いんですよ、あいつは」
 なぜか恥ずかしそうに答える主人に、彼は苦笑しながらそうですかと言葉を返した。
 通された客室は、やはり豪華ではないものの、どこか落ち着ける雰囲気を漂わせていた。木製の(しかも恐らくは手製の)家具たちの効果かもしれない。馬車の御者を兼ねて連れて来た執事には、別の個室を取らせた。
「昼食は12時半となります。それまでごゆっくりおくつろぎください」

 ティートとアルターは、その少女を仔細に観察していた。
「ほほー。なかなか可愛いじゃねーの。なあ?」
「あ、ああ」
「ん? 何だお前。ナニ? 緊張してんのか? ん?」
「そ、そういうわけじゃねえよ」
「んー? おいおい、怪しいぜ。怪しすぎるぜーアルター」
「くっ……」
 肘でぐりぐりとこちらを攻撃してくる宿屋の息子に、アルターは辟易した。彼と同じ14歳。性格はまるで違うが、なぜだか気が合う。言うなれば、相棒のようなものだ。
 彼らの視線の先にいる少女は、どこかの令嬢のようだった。今朝、大きな馬車でやってきた家族の娘である。お嬢様にしては珍しく、活動的な格好をしている。最も、それは彼らの『お嬢様』に対する先入観があるからかもしれないが。
「なんかあれだな。暇そうだな?」
「ああ、そうだな」
「うし」
 言いながら立ち上がり、ティートは大股で少女のところへ向かった。昼食後、宿の夫婦と妻同士、夫同士でそれぞれ料理や趣味の話を弾ませている両親に、時折退屈げな視線を投げかけているその少女のもとへ。
「お、おい!」
 アルターも慌てて後を追う。
 ティートは少女の前に仁王立ちし、意味も無く威圧的に見下ろした。少女は食堂のソファに座っていて、いきなり目の前に現れた少年に驚いているようだった。目をぱちくりさせて、視線を絡ませている。
「おいおい、なんでお前はそう唐突なんだよ」
「む? なんだ。反対意見を出すわけか? ん?」
 後ろから肩を掴んだアルターに、ティートは首だけ振り向けて言った。
「俺はこの子が暇そーだからだな、ほれ、あそこに連れてってやろーと思ったわけだ」
「あそこ?」
「月」
「あー」
 天井を指差して、またも無意味に得意げなティート。そして曖昧に口を開いているアルター。ふたりに向かって、少女は言った。
「こんにちは、ティートにアルター。わたくしをどちらへ連れて行って下さるのかしら?」
 ――余裕の笑みをもって。
 ふたりの少年が、ぽかんとこちらを見返してきた。名前を呼ばれるとは思わなかったのだろう。レノリアは心の中で舌を出した。
「えーと。なんで俺たちの名前を知ってるんだ?」
 質問してきたのは、やはりティートだった。腕を組み、右手で頭の横をかきながら。
「あら。だってさっきから、あっちで名前を呼び合ってたじゃない」
「聞こえてんのかよ」
 降参でもするように、両手を上げるティート。あるいはお手上げのサインかもしれないが。
「それで、どこへ連れて行ってくれるの? 宿屋の息子さん」
「そんなことまでバレてるし。ったくよー。もっと驚かせてやろーと思ったのに」
「耳が良くってごめんなさい」
 くすくすと笑いながらそう言う少女に、ティートは悪戯心を再び持ち上げた。彼が浮かべた人の悪い微笑みを、アルターは見逃さなかった。
「ほれ、ついてこいよ。いいもん見せてやる。レノリア」
「あら」
 効果は十分だったようだ。立ち上がりながら、レノリアが言う。
「あなたも耳がいいのね?」
「目と頭と顔もだ」
 笑い合いながら、ふたりは宿の外へ向かった。
「……やれやれ。なんかティートが二人になった気分だ」
 ぼやいて、アルターも後を追う。
(なんか俺、いっつもおっかけてばっかだよな)

 そこは山の中で、かつ森の中だった。鬱蒼と茂る木々の間に、細い獣道が続いている。ティートの話によると、これは獣道ではなく、猟師たちが狩りのために通る道なのだそうだが、どちらにしてもレノリアにとっては変わりなかった。
「それで、その『いいもん』があるところにはまだ着かないの?」
「もーちょいだって」
「いや、まだ結構あるだろ」
「うっせー」
 口を挟んだアルターに、ティートは無愛想な言葉を返す。
 内心、ティートもアルターも舌を巻いていた。かれこれ半時間は山の中を歩いている。普通の女の子、それも普段都会暮らしで山登りなんかしたこともないような娘なら、とっくに息を上げている。だがレノリアは、全く息を乱していなかった。
(こりゃ相当なお転婆なんだろな)
 口には出さず、アルターはそう判断した。いつもはドレスに邪魔されてできないような冒険を楽しんでいる。そんな様子である。
「いつもはドレスに邪魔されて、こんなことできないのよね」
「やっぱりか、おい」
「なにが?」
「いや、なんでもない」
 なんとなく頭を抱えたい気分になるが、なんとかアルターは我慢した。ティートはケケケと笑っている。
 やがて、彼らは開けた場所へ出た。樹木の群れが切れた、断崖である。オーリンの村を一望できる。
「ここなの?」
「ああ。もうすぐだぜ」
 ――その光景は、レノリアを圧倒した。
 空に浮かぶふたつの月。ルーネルとサファーナ。ふたつが空の高いところで水平に並んだ。そしてどういうわけか、それぞれが淡い紫に輝き始めたのだ。
 紫の光は強さを増していく。それが空中の細かい塵に反射して、紫の雪のように見せていた。しかもその雪は、縦横に自由に泳いでいるのだ。
「きれい……」
 数分間、その不思議な現象は続いた。終わりは唐突で、全てが無かったことのように消えうせた。
「仕組みはわかんねーけど、あれはここでしか見れねーんだ」
 ティートが満足げに説明を始める。そこにアルターが、ちょこちょこと補足説明を入れていた。
「俺は、この季節の気温、湿度、太陽の高度、あとふたつの月の太陽光の反射角度が関係してるんだと思う。ま、それだけじゃ説明がつかないんだけどな」
 アルターのほうが、ティートよりもこの現象に熱心なようだ。夢を語るような口調で、彼はレノリアにそう伝えた。
「どーよ? オーリンの『真昼の紫月』」
「それ、あなたたちの命名?」
「ふふん、まあな」
「まあ、そのネーミングセンスがどうかってことは置いといて」
「んだとコラ」
 それは無視して、レノリアは振り返った。その表情に、アルターは胸をどきりとさせる。
「最高ね。また来るわ。その時もしっかり案内しなさいよ?」
「…………」
 悪戯っぽい少女の顔を見て、ティートはなぜか敗北感を味わっていた。

________closed.