心象風景

 

 白い白い、四角い部屋で、私は白い白い、柔らかな服を着ていた。白い白い、柔らかいワンピース。袖が無くて、服を支えているのは、肩に掛かる細い紐だ。下着もつけている。肩紐の無いブラと、紐で結ぶショーツ。下着も白い。白い白い、レースの下着。
 白い白い、四角い部屋で、私は白い白い、自分の肌を抱いていた。白い白い、冷たい私の腕。血の気が無くて、細い骨と腕。不健康と、私の愛する彼は、この肩を抱いていつも言う。ほんとは健康。ごはんもちゃんと食べる。運動もしている。けれども細い。細い細い、軽すぎる体。
 部屋は白くて四角くて、温度が無い。クロスは凹凸の少ない唐草模様。一番近い壁に触れる。私の掌と同じ温度。くっつけていると、いつの間にか掌にうっすら汗が浮かんでくる。三六度二分の壁。
 白くて四角い部屋で、白くて細い自分の体を抱いていると、知らない間に水が出ていた。床の真ん中から、少しだけ粘り気のある、透明な水が湧いている。ぽこぽこ、なんて音は無い。ただ透明な水が、静かに増えていく。水はやがて、私のいるところまでやって来た。はじめに足先が触れた。私の肌と同じ感触。ほんの何ミリかの厚みの、透明な肌。少しだけ粘り気がある。膝を曲げていたから、次に水に触れたのはおしりだった。白い紐のショーツに、水が染み込んでいく。気持ち悪くはない。水と私が、同化していくかんじ。透明な肌に、白い肌が覆われていく。
 少し顔を上げて上のほうを見てみると、向かいの壁から花が生えているのを見つけた。子供が描く「お花の絵」みたいな、きれいな双葉と花びらの花。茎と葉っぱは絵の具みたいな緑で、花びらはクレヨンみたいなピンク。わっかになった花びらのまんなかに、黄色い丸がある。花粉が詰まっているところなのかもしれない。花は垂れ下がっていて、私にお辞儀しているみたい。双葉が大きい。
 隅っこに木がある。さっきからあったのかもしれないし、たった今はえたのかもしれない。植木鉢のようなものはない。床は土じゃないのに、木はしっかり床に根づいている。幹は健康そうにつややかで、枝がたくさんついている。背の高さは、たぶん私を同じくらい。はっぱが細かくて、羽毛みたいに枝にくっついている。風はない。なのに木は嬉しそうにゆれている。ほほえみかけると、木はゆっくりとうなずいた。
 水が腰のすこし上まできた。白くて薄いワンピースの裾が、水にういてひらひらしている。つま先をみると、右の親指にだけペディキュアが塗られている。うすい水色。水は透明なのに、水色はどうして水色なんだろう。ほんとは空色なのかもしれない。つま先の上を、魚がとおった。笹の葉みたいな形の、銀色の魚。尾びれ以外のひれがない。ごまつぶに似た目をしている。魚は一瞬だけ私をみて、すぐに木のほうへおよいでいった。ひれがないのに、すごく速い。
 床に仰向けに寝ころんだ。体が水にしずむ。目はとじている。すこしずつ、すこしずつ、私の体がうかんでいく。水がふえるのと一緒に、私の体がういていく。髪がひろがってゆれる。それまで水は静かにふえていたのに、私が寝ころぶと水面が波うった。波はとまらずに、水の中に流れができた。
 目をあけると、泡がみえる。下のほうから浮きあがってくる、たくさんの小さな泡。どこからうまれているのかはわからない。ただ私は水の中にうかんでいて、泡が私のまわりをまわって、そして上のほうへのぼっていく。私は水のまんなかでとまっている。水面はずいぶん上のほうへいってしまった。体を下にむけると、泡と魚と木がみえた。首をひねると花がみえた。花をみて、私はもう一度下をみた。
 影ができていた。私の形の影。私の形だけど、ゆらゆらゆれている影。私の背中のほうから、光がさしているらしい。泡が光っていた。光の線ができていた。光と水がまざって、水は光色にそまっていった。流れは光を反射している。魚の背中がきらきらしている。光は白くて四角い部屋に、たくさんの彩りをあたえた。
 じっと床をみていると、私と床のちょうどまんなかあたりに、小さな光の球がうまれた。光の球はすこしずつおおきくなっていった。球の表面には、泡でできた糸がたくさんついていた。毛がはえているみたいにみえたけれど、それはやっぱり泡だった。
 光の球は、私がだきかかえられるくらいのおおきさになると、それよりおおきくならなかった。水の中でふわふわういている。私は頭を下にむけて、光の球のほうへおよいだ。
 光の球は半透明だ。むこうがわがすけてみえる。それの中になにかがあった。光の球の半分くらいを、そのなにかがみたしている。そのなにかは丸いものだ。そのなにかは丸くて柔らかそうなものだ。そのなにかはバランスがわるい。頭が大きい。でも他は小さい。そのなにかは丸くて柔らかそうでバランスがわるいものだ。
 わたしは光の球に腕をのばす。すると光の球は、すこしだけわたしのほうへうごいた。光の球はあわく光っていて、ちかづいてくるとその光がまぶしい。わたしはまぶしいから目をほそめた。目をほそめると、光の球の中にあるものが、さっきよりもすこしだけはっきりとみえた。それはちぢこまっている。
 光の球はわたしのすぐちかくにきた。わたしの胸のすぐ前でゆらゆらしている。わたしは両腕をひろげて、光の球をだきしめようとした。光の球はあたたかい。わたしよりあたたかい。だきしめようとすると、光の球は輝いた。上のほう、光がさしてくるほうから声がきこえた。やさしい声。やさしくて、あたたかくて、安心な声。わたしはこの声を聞くと、とてもとてもやすらぐ。光の球の輝きがつよまって、わたしはその強い光につつまれた――

 ――声が、聞こえる。
 私の名前を呼ぶ、優しい声。いつも私にだけ向けられる、優しい声。どんな時も一緒にいてくれたあの人の、私を呼ぶ声。
 瞼を上げるのに、ひどく時間がかかった。手足の先の感覚が無い。指なんてついていないのかもしれない。首と耳の後ろに髪の感触。その下に柔らかな枕。懸命に肋骨を広げて、肺に空気を送り込んだ。空気が喉を通る時、僅かに擦れるような音が聞こえた。
「気がついたかい?」
 私の意識がはっきりするのを待って、彼は私に声をかけた。彼はいつも、私を気遣ってくれる。私は短く返事をして、頭を軽く左へ向けて彼を見た。彼はベッドの私を覗き込んでいた。顔と顔が、ちょうどいい距離。彼のあたたかさを感じられる距離。私は彼の顔を、この距離で見るのがとても好きだ。
「よく眠っているよ」
 頷いて、私は顔を右へ向けた。私の隣で、小さな小さな赤ん坊が眠っている。白くて肌触りの良い服を着ている。看護婦さんが着せてくれたのだろう。昨日、私の身体から生まれたばかりの、真新しい命。私と彼の、大切な大切な子供。その子は両手を握り締め、口をほんの少しだけ開いて眠っている。
 腕を伸ばして人差し指をその子の手にくっつけると、その小さな手は思いのほか強い力で私の指を握った。口許が緩む。頭の向きを彼のほうへ戻して、微笑む彼を見つめて、私はかすれそうな声で言う。
「……私と、あなたと、この子の夢を見たの」

________closed.