夏のある日に

 

 ――その日は、後にその年一番の猛暑だったと記録されている。そんな日のことである。

 但馬安芸は、学校帰りの道を歩いていた。容赦なく照りつける陽光がアスファルトに跳ね返り、まるでサウナのようになった道を。
「うーーーーー」
 鞄を肩に提げ、制服姿の安芸は重い足を前へ進める。幸い道は下り坂なので、歩くこと自体は辛くない。その場にいることが辛いのだ。
 時のころは正午過ぎ。一日で最も陽が強いころだ。
「なんで……」
 うなじあたりまでのショートカットの彼女は、暑さや熱さに滅法弱い。熱が苦手である。夏よりも冬が好きなのだ。
「なんでこんな日に、部活があるのー……」
 ぶつぶつと不平不満を並べ立てながら、安芸はその帰り道を歩む。太陽の白色光を反射する、コンクリートの壁。居並ぶそれらのまぶしさに目を細める。
 帽子を持ってこなかったことを嘆きながら、彼女は呟いた。
「夏です……」
 その狭い視界に、涼やかな水色の建物が入る。
(甘味処……?)
 今時珍しい看板である。ともあれ、彼女は涼を取ろうとそこへ足を向けた。
 店の外に、背もたれの無い長椅子と大きな日除け傘、そして扇風機が設えられている。安芸はその椅子に座り、太陽系の王たる巨星に向けて、怨嗟のうめきを漏らした。
「ふひ〜」
 ――全く力の入ったものではなかったが。
 扇風機は、スイッチを入れていいものなのか。考えあぐねていると、店の主人らしき老婆が奥から出てきた。
「おや、いらっしゃい。暑いねえ」
「アツイですねえ」
 世間話でもするかのように、二人はよく似た口調で話し始める。
「扇風機、つけていいよ。コンセントは差してあるからね」
「ああ、ありがとうございますー」
 風速『中』のスイッチを押す。モータの回る音がして、風が送られてくる。どちらかというと温度は不快だったが、汗をかいた肌には心地よかった。
「ふ〜。生き返りますねえ」
「そうじゃろそうじゃろ」
 安芸の隣に腰掛けた老婆は、団扇で自らを扇いでいる。
「そうだ。冷たいお茶、飲むかい?」
「あ、私お金、あまりないんで……」
「いいよお。サービスしとくよ」
 返事を待たず、店の主人はまた奥へとひっこんだ。ひとりになり、安芸は長椅子に寝そべってみた。
 やはり陰とは、いくらかは涼しいものである。扇風機のおかげで、汗は随分とひいていた。それでも完全にひききることがないことが、暑さの程度を如実に表している。
「おたまー」
 老婆が持ってきた盆には、氷の浮いたお茶が入ったコップがふたつと、水羊羹を載せた皿が二枚、載っていた。コップについた露が、安芸にはひどく魅惑的に見える。
「お待たせの意味じゃよ」
「分ってます分ってます」
 いいながら、コップを受け取る。大きなものだったが、一気に半分を飲み干した。
「ぷはーっ。おいしい! ありがとうございますーっ」
「いいんじゃいいんじゃ」
 老婆は、久しぶりの客が孫のような娘で嬉しかったのだと話した。もっとも、半分道楽でやっている店なのだそうだが。
 よく冷えた水羊羹と麦茶を胃に入れて、安芸は幸せな気分だった。主人と何十分か話をした。戦争で引き裂かれた昔の彼女と、その恋人の話。暑さをしのぐための、古くからの知恵。おいしい水羊羹の作り方、等々。話し上手な老婆と聞き上手な少女は、そのままいつまでも話していそうだった。

 安芸は坂道を歩いていた。ただし、今度は上り坂である。
(えーっと、この坂をのぼりきったところを右……だっけ?)
 陰道である。幅が狭い。大人がすれ違うのがやっと、といったところか。両側は民家の塀と、ベニヤの壁になっている。左側の家で飼われているらしい猫が塀の上から小さく鳴いてくる。
「にゃお」
 なんとなく口真似しながら、のぼる。
 のぼりきってみると、そこはいかにも田舎然とした風景だった。空き地のようなところに、雑草が群れを成している。かなり広い野原と言えるだろう。もしかすると、単作の合間に蓮華でも植えているのかもしれないが。
(でもそれっていまの季節だっけ?)
 どうでもいいと思いながら、そんなことをちらりと考えてしまう。あとで植物図鑑でも眺めてみよう。いや、それとも農業の本の方がいいかな?
 普段あまり本など読まない少女が、らしくもなくあれこれと考えを巡らせていると、寺に突き当たった。甘味処の主人の言ったとおりである。
(おっきなお寺……)
 門の奥に、どっしりと構える本堂が見える。その周辺には、大きな花や葉っぱの園が見えた。左側の少し手前に、大きな銅像がある。仏像らしきそれは、彼女にはなんという名前なのかはわからなかったが。
 門の前でニ拍手して、頭を下げる。何を願ったわけでもないが、そうすると何かが叶いそうだった。
 寺を右に迂回する。かなり広い敷地を回り込んで、安芸は少し休憩した。手近な石段に座り、脚を伸ばす。
(いつもの道の上に、こんなところがあったなんて)
 空を見上げると、大きな鳥が旋回していた。その更に上に、真っ青な空が、真っ白な雲を従えて広がっている。この街のどこから見上げても、この空は同じ空なんだ。そんなことをふと思う。
(まあ、田舎だからねー)
 理由にはならなさそうなことを理由にしながら、彼女は立ち上がった。額に少し浮いていた汗を拭い、再び歩き始める。
 少し歩くと、左手に地下へ下りるらしい階段が現れた。
「あ、ここだー」
 老婆に教えてもらった場所である。思わず声に出して、安芸はその階段を下りた。『コラムナ・アクアリウム』と書かれた看板を掲げ、その入り口は彼女を待っていた。
(おじゃましまーす)
 入場は無料だと、老婆は言っていた。地元の寄付で経営が成り立っているらしい。安芸はこんな場所など、今まで聞いたこともなかったのだが。
 中は薄暗い。天井では、少し淡くブルー・オムニが灯っている。全体的に、青と黒とに彩られた世界。その空間の周囲に、魚たちの水槽がある。壁から覗くその一面は、どこか異世界を覗き見る窓のような、不思議な存在感を主張していた。
(素敵……)
 受け付けに、人はいないようだった。安芸は戸惑いながら、水族館の観覧コースと思われる方向に足を向ける。
 内部は、螺旋状に上っていくようだった。中央に太い柱があり、その周りをのぼっているらしい。
(それでコラムナなんだ)
 暗い中で、水槽の青い光が幻想的に揺れている。その中で、水と魚たちが人間には無関心に泳いでいた。
 ゆっくりと歩む。冷房の効いた空気が心地よい。
 熱帯魚や金魚から始まって、軟体動物、甲殻動物、普通の魚類と続いていく。海の神秘に包まれる錯覚。
 初めて見る生き物も、もちろんたくさんいた。アシカなどの、あまり見ることのない動物もいた。ハリセンボンなんていう珍しい魚もいた。深海魚は、やっぱり怖かった。
 水槽に夢中になっていると、いきなり声をかけられた。
「やあ、いらっしゃいませ」
「ひゃ!」
 飛び上がりそうなぐらい驚いた。安芸のその様子を見て、この水族館の館長らしき男は微笑んだ。
「お嬢さん、おひとりですか?」
 温和そうな顔の、50ぐらいの壮年男性である。薄く髭を生やしている。
「あ、はい……」
「どうですか、私の水族館は。気に入っていただけましたか?」
「はい、とても! すごく素敵です!」
「それはよかった」
 柔らかい物腰の館長は、かなり年下の安芸に対しても丁寧だった。興奮した口調でいかにこの水族館が素敵であるかを語る彼女に、嬉しそうに頷いている。
 ふたりは一緒に歩き出した。外側、つまり壁や水槽に面した方に安芸、その左に館長である。
 館長の説明を聞きながら、安芸はまた水槽に没頭する。ぎりぎりまで顔を近づけて、水中生物の踊る世界に憧憬を送る。
「どうして、人は水から出ちゃったんだろう」
 何気なく口にした疑問に、館長は丁寧な口調で答えてくれた。
「生き物には、それぞれ適した世界があります。人は、進化の過程で水中での生活を忘れてしまいました」
「水の中は、こんなに自由で綺麗なのに」
「……だから人は、水の中でより自由に動きたいと願うのかもしれませんね」
 館長に口調に、安芸は少しの哀惜を感じた。喪失感のようなものが漂っている。振り返ってみると、彼の表情にも陰りが見えた気がした。
「あ……」
 何か悪いことを言っただろうか。懸念が胸をよぎる。
「ああ、いえ。少し昔を思い出しただけです。気になさらないでください」
「あの、でも……」
「……私の妻は」
 心配そうな安芸に、館長は話し始める。あまり人にするような話ではないのだろうが、どういうわけか彼は感傷に浸りたい気分になっていた。安芸の存在がそうさせたのかもしれない。
 彼の妻は、スキューバ・ダイビングが大好きだった。毎年夏になると、沖縄や和歌山の海に潜りに出かけたそうだ。魚たちや珊瑚礁を愛し、海をこよなく愛でた人だった。
 そして15年前の夏。彼女は海で死んだ。
 死因は溺死。その日は波が高かった。
「水族館を創るのは、彼女の夢だったんです」
 そうして彼は、亡くなった妻の夢を叶えるべく、この街に水族館を建てた。それが彼女への、なによりの供養になると信じて。
「いや、これは申し訳ない。湿っぽくなってしまいました」
「いえ……そうだったんですか」
 話が終わるころには、観覧コースの終わりも近づいていた。ふたりは静かに、その場所を迎える。
 上った分の高低差を、階段で下った。それは水族館の入り口の部屋に繋がっていた。
「あの、館長さん」
 水族館を出る直前、安芸は振り返って言った。気分を害したかと心配していた館長は、微妙な表情で応える。
「また、来てもいいですか? 今度は友達も一緒に」
「……ええ、もちろんです。お待ちしていますよ」
 安芸は微笑んで、水族館を出た。館長も嬉しそうだった。
 ふたたび、彼女は坂を歩いている。随分と遅くなってしまった。おなかも空いている。急いで帰って、ごはんを食べないと。
 安芸は下り坂を駆け出した。

 ――その日は、後にその年一番の猛暑だったと記録されている。そんな日のことである。

 

________closed.