サンセット・ワールド

 

 ――取り柄。この言葉を最初に口にしたのはいったい誰なのだろう。こんな言葉を創り出したのはどうしようもないほどの高慢者か、完璧な利己主義者か、あるいは悄然と肩を落とした自虐者かだろうと、彼はなんとはなしにそう考える。
 世の誰にでも言えることだが、その人間性の全てが欠点であることなど有り得ない。月並みな言葉で表すなら、誰にでも長所はある、ということだ。
(とはいえ、その長所がひたすらにくだらないことだったら、救いは無いよな)
 彼は耳元で流れている歌を声には出さずに口ずさみつつ、街の雑踏を歩いていた。一年ほど前から好きになったバンドの曲。ボーカルは女性だが、女性的とは言い難い高さの声の持ち主で、しかし不思議にその声には透明感がある。彼はそのバンドの曲も詞も、ボーカルの歌声も気に入っていた。何か現代人の心を詠ったような詞は、感情を移入して唄うことが出来た。
 彼はどこにでもいるような高校生で、つまり夕方の喧騒に紛れれば見つけ出すのは難しいような、そんな少年だった。髪はあまり長くない。染めているのではない、天然の濃い茶髪。服装も特にどうということのない、いつの時代にも流行にかかわらずに存在してきた、パーカーに柔らかそうなジーンズというものだ。
 季節は春先。そろそろ冬ものの服装では暑い頃だ。彼もパーカーの下にはTシャツを一枚着ているだけだった。
(つっても、それはつまり誰にもどうしようもないほど、世の中大したことないってことか)
 商店街は、そろそろ終わりのようだった。アーケードは、数メートル先で切れている。彼はそこで足を止め、くるりと頭を巡らせた。確かこのあたりだったはずだ。
(お、あったあった)
 見つけたのはCDショップで、彼の左側にあった。
 そして彼は入店し、今もヘッドフォンから流れているのと同じアーティストのアルバムを一枚、買った。

 文化祭の予定日は、三日後に迫っていた。全校のどのクラスも、その準備で忙しい。そういった状況の中でも、みんなでひとつのことをがんばるのはダサイだの、めんどくさくてやってられんだのと、まあそんなような文句を口にする者はいるのだった。
 彼はそんな連中の一員であるつもりはなかったが、今の彼を見れば誰もがそうなのだと判断するだろう。つまり、彼の意図に反するという意味だが。
 学校中が騒がしい中にあって、この場所だけはいつものように静謐だった。
 校舎裏の、非常階段。構成する鉄材が錆びて傷んでしまっていて危険だということで、補修されるまで立ち入り禁止にされている。ただでさえ陽の当たらない、寂れた場所だ。こんなところに模擬店を出すクラスも無い。
 その階段の中ほど――三階の踊り場から数段上がった位置に、彼は座っていた。よれたカッターシャツは着こなしていると言えなくもないが、単に一年ほども着つづけて着崩れを起こしているだけだろう。
(いつまでも変わらない世界に腹を立て それでも僕らは今を生きる――)
 頭の中を流れているのは、昨日買ったアルバムの中の一曲だ。『line on today』というタイトルで、彼がそのアルバムの中で最も気に入った曲だった。
 頭にはやはりヘッドフォンが付けられている。そのコードは、ズボンのポケットに入っているポータブルCDプレーヤに繋がっていた。コンピュータとCD−Rドライブを自室に持っている彼は、MDやカセットテープといったものは使わない。
(今日は時間の流れの一点だけど 還るならそれは今しかない――)
 デジタルとピアノを融和させたメロディが、彼の心を満たしていく。首を曲げ、壁に頭を預けて目を閉じている。少し俯き加減で、他人が見ると眠っているようにも見えるかもしれない。いや、実際彼は眠っているようなものだった。心が忘我の彼方を漂っているという意味では。
 音楽が、彼の存在の全てを包み込む。緩やかでありながら躍動する音符の波に飲まれる感触は、言い難いほどの快感だった。周囲の一切から切り離され、彼は耳小骨へと直接流れ込む振動に支配される。ボリュームが数倍に増したように感じられ、世界には彼と音楽以外の何も存在しなくなる――
 ………………

 気付けば、目に入る風景は赤に染め上げられていた。直視するには目を細めなければならないほどの、きつい斜陽の色だった。CDプレーヤを入れたのとは別のポケットを探って、携帯電話を取り出す。時刻を確認してみると、午後5時ごろだった。
(やっべ……)
 早く教室に戻って手伝わないと、学級委員長の女子にどやされそうだ。もう慣れてはいたが。
(――そうだな。慣れたし。いいか別に)
 開き直って、しかし彼は腰を上げた。教室に向かうつもりはなかったが、そこらの模擬店を冷やかすのもいい。それに、さすがに何時間も座りつづけて、尻が痛かった。
 壁に押し付けていたせいで妙な型になってしまった髪を、手で少し乱暴にかきまわす。階段を踏んで降りると、錆びて赤茶けた鉄がカンカンと乾いた音を立てた。
「ん――?」
 校舎をぐるりと回り込んで中庭に出ると、軽音楽部のライヴ舞台が出来上がっていた。その中に不自然なテーブルを発見し、訝しむ。
「なあ、このテーブルって何に使うんだ?」
 舞台に近づいて、なにかごそごそと組み立て作業をしていた男子に尋ねる。恐らく彼も軽音部員なのだろう。
「ああ、これはパソコンを置くんだ」
「パソコン?」
「今回のライヴは、試しにMIDI音源を入れてみようと思ってね。MIDI音源って分かる?」
「ああ、まあ。なるほどな。そうかそうか――」
 こちらの納得した顔を見て、軽音部員は作業に戻った。よほど忙しいのか、手つきは慌てているように見える。ただ落ち着きが無いだけなのかも知れないが。
(MIDIかー……)
 コンピュータ音楽には、少し興味を持っていた。会話の邪魔にならないように音量は下げているが、今も耳元ではデジタルな音とピアノの、合わないようで絶妙に合ったメロディが流れている。
(月のように冷たい太陽 褪せた未来に優しすぎて――)
 胸中で歌いながら、彼は模擬店の列へと向かった。しかし考えているのは、コンピュータ音楽のことだ。透明感のあるストリングスの音が、耳に心地良い。
 模擬店は、一見するとどれも平凡なものだった。たこ焼き、焼きそば、フライドポテト、お好み焼き、アイスクリーム、射的、くじ引き――出店としてはごくありきたりなものが並んでいる。中には『穴掘り大会in校庭』などという、よくわからないものもあったが。あれは模擬店ではなく、出し物なのか?
 そういった仮設店舗の前を、ぶらぶらと歩く。
 彼のクラスは、漫画喫茶をすることになっていた。40人で漫画の単行本を持ち寄って、喫茶店もしようというものだ。彼は漫画は専ら借りる方なので、できることと言えば内装の手伝いくらいなのだが。材料の買出しや料理といった分野は、全て女子が担当している。しかしそれももうほとんど完成しており、実際彼のできる仕事はほとんど無かった。
(迷い人の影の中で 君はまだ小さくて 心絡め取ったのは時の鎖――)
 時の鎖――
 昔――小学生の、それも低学年だったころ。ショッピングモールで迷子になったことを、彼はふと思い出した。ヘッドフォンを外して首にひっかけ、なんとなく空を見上げる。
(まるで――)
 世界を塗りつぶす赤は、少し翳っていた。すれ違うまで相手の顔がわからないような、そんな風景。光量の微妙なタペストリー。古き人が畏れた、魔物の出る刻限。
 黄昏。少し洒落た言い方をすれば、逢魔が時。だからというわけではないが、彼は少し皮肉めいた渦が自分の心に巻き始めるのを感じていた。これくらいの時刻には、いつも罹る。持病のようなものだった。
(まるで、子供がするままごとの延長じゃないか?)
 商売の真似事。それを嬉々としてしている自分たちが、何かひどく滑稽に思えた。
(人に押し付けるのは、好きじゃないけど――)
 よじれるほどの不快感に、意図に反して唇が攣りあがるのを自覚する。彼は自分の教室へと足を向けた。

 教室は、相変わらず騒がしかった。当日を目前にして浮かれているのか、誰も彼もやけに嬉しそうだ。
 そんな中、彼はBGM係と書いた腕章をつけている女の子のところへと向かう。その彼女は、今ではほとんどすることの無い内装係の登場に、僅かに眉をひそめていた。
「なあ」
「どうしたの?」
 それでも別に無視するということもなく、彼女は返事をしてきた。彼はポケットからCDプレーヤを取り出し、カバーを開いた。そのままの状態で、CDを見せる。ピックアップレンズはもちろん、CDに隠れていた。
「これ、BGMに使わないか? まだマイナーなバンドなんだけど、いい曲だぜ」
「ふうん?」
 CDプレーヤを手渡すと、彼女はCDを外し、興味ありげに眺めた。CDのタイトルは『be widespread』。
「別にいいけど……でもどうして、あなたがBGMのことに口を出すの?」
「越権行為だとでも? いいだろ別に。いい曲を選ぶことはさ」
「ん?」
 彼のどこかおかしな物言いに、彼女はまた眉をひそめた。首をかしげ、よく分からないという意思表示。
「――選ぶことはさ、俺の取り柄、なんだよ」
(……だったらなんで、BGM係にならないのよ)
 なんだか得意げな彼の態度に、ジャンケンに負けてBGM係りに回された彼女は、胸中で少し腹を立てた。

________closed.