eine Tasse Kaffee
マスターは23歳で、大学を卒業したばかりらしかった。若いのにどこか年寄りじみていて、客が少ない時にグラスやカップを磨いている姿は、実に絵になった。髯でも生やせば、お洒落なバーのバーテンダーにも見えたかもしれない。背はあまり高くなかったが、穏やかな物腰はひとを安心させた。
その喫茶店のテーブルや椅子は落ち着いた、鮮やかでないオレンジ色で統一されていて、天井では大きめのファンがいつもゆっくりと回っていた。店の片隅には前時代的な、古びたジュークボックスがあった。BGMはたいていジャズで、たまにポピュラーなバラードなどがまじっていた。街の、半ば広場か公園と化した(なにせ中央には円形の噴水まである)通りに面していて、前面は掃き出しの回転窓になっていた。店に入るとすぐカウンターが見え、右手奥が広くなっていた。マスターはたいていの場合、ホールとキッチンをアルバイトの学生に任せて、カウンターの奥に座っていた(ただしマスター特製王国風オムレツの注文が入ると厨房へ引っ込んだ)。
僕は喫茶店でアルバイトをしていた。
◆
ある時、マスターが鼻歌まじりにフライパンを扱っていた。マスターの料理の腕は、ほとんど素人にすぎない僕から見れば神がかり的だったが、フライパンを持つことはほとんど無かったので、それはとても珍しい光景だった。マスターは、喫茶店とは喫茶する店であって食事をする店ではないという考えを持っていた。だから店のメニューに載っている料理は、ほんの軽食程度のものばかりだった。
マスターがフライパンで炒めていたのは中華そばだった。店には中華そばを使ったメニューは無かったので、自分でどこかで買ってきたのだろう。しかもコンロの脇にはオイスターソースや豚肉など、これまたメニューにある料理には使われない調味料や食材が並べられていた。フライパンの中の中華そばにはとりどりの、一口大に切られた野菜がまじっていた。察するに、マスターが作っていたのは焼きそばだった。マスターは麺にソースを絡め、菜箸と手首を上手く使いながらフライパンを扱っていた。
焼きそばを作っているところは初めて見た。アルバイトを始めてそれほど日が過ぎたわけでもないから、当然と言えば当然なのかもしれないが、マスターが焼きそばを作るということはひどく意外だった。マスターと焼きそばは、なんとなく結びつかない気がした。マスターがCDショップなら、焼きそばは落語家のラジオ番組だった。そんな風に、マスターと焼きそばは僕の中に存在していた。
マスターが鼻腔から流しているのは(鼻水ではなく)「新世界より」だった。ドヴォルザークのあれだ。「新世界より」と焼きそばも、やっぱり結びつかない気がした。
機嫌良く焼きそばを作るマスターの背中を通り過ぎて、コーヒーメーカーに手を伸ばした。豆と水を入れてスイッチをオンにした。こぽこぽと音を立ててメーカーがコーヒーを淹れる。水が全部コーヒーに変わるまで、ぼーっとマスターを見ていた。マスターは焼きそばを完成させ、それを大きめの皿に盛り付けた。焼きそばの真ん中に、冷蔵庫の中のタッパーウェアから取り出したレッドチェリーを載せた。レッドチェリーと焼きそばも、やっぱり結びつかない気がした。
マスターからコーヒーメーカーへ目を移した。コーヒーは溜まりつつある。
◆
マスターはいつもカウンターの向こうに座っていた。そして特に何も考えていないような顔で、カップを磨いていた。店には同じ形のカップはひとつとして無かった。それはグラスやその他の食器についても同じだった。収納がひどく面倒なのはそのせいだった。
昼間にやって来るのは主に学生や主婦で、時々スーツを着たひともあった。オフィス街からは離れていたから、まともに働いているサラリーマンやOLとは考えにくかった。ならどういうひとなんだと聞かれても、彼らに尋ねたことは無かったからそこのところはわからない。ただコーヒーを持ってスーツのひとたちの席に近寄ると、必ず焦げた匂いを感じた。コーヒーの香りが台無しだった。
コーヒーメーカーはたいてい、一日中動き続けていた。一日中と言ってももちろん24時間というわけではなくて、営業時間中はずっと、という意味だ。ほとんどの客はコーヒーを注文したし(そりゃあ中には紅茶派のひとだっていたが、コーヒー派が圧倒的に多かった)、客が飲まない時は店員が飲んだ。店員は百円だけ払えば、ブレンドからカプチーノまで何でも飲めた。勝手にコーヒーを淹れてもマスターは何も言わなかったし、店員たちも気兼ねなど全くしていなかった。
そんなわけでバスタブ2杯分くらいのコーヒーが毎日消費されていた。
◆
その青年が来たのは、ある初秋の夕暮れだった。彼は何かに絶望しているように見えた。というのも、彼はカウンター席に座ったままで微動だにしなかったからだ。彼は天井を仰ぐのが趣味なのか、ずっと顔を上へ向けていた。ゆっくりと回るファンを眺めていたのかもしれない。服装はジーンズにブラウンのパーカー。そしてスニーカー。そんな20歳くらいの若者だった。
マスターは特に声をかけるわけでもなく、青年のほうへ目を遣ることもなく、ただカウンターに肘をついて、ジュークボックスが流すジャズを軽くハミングしていた。
青年は天井を仰ぎ続けていた。顎に、僅かだが無精ひげが生えている。彼の他に、客は見当たらなかった。マスターは変わらずカップを磨き、ジュークボックスはメロディを流していた。夕焼けの光が斜めに差し、青年の影をカウンターに薄く投げかけていた。
かたり、と。カウンターにカップを載せた小さな皿が置かれた。青年の影に隠れるようにして、白く淡い湯気が昇った。その湯気にまじって、漂ったのはコーヒーの香りだった。青年が天井から目線を外し、置かれたカップを見つめた。コーヒー色の小さな水面が、円い器の中で揺れていた。青年の輪郭が、その水面に映って揺れていた。
青年の手がカップに伸び、コーヒーの熱で温まったそれを包み込んだ。ひび割れた掌が熱に驚いたように竦んだが、青年は構わずその温度を感じ続けていた。マスターはサーバーを持って立っていたが、思い出したように自分用のカップにもコーヒーを注いだ。そしてカウンターを挟んで、青年のほぼ正面に座った。ふたりはほとんど同時にカップを持ち上げ、マスターは片手で、青年は両手でそれを口元へ持っていった。
かたり、と。カップが受け皿に戻される音。
マスターは静かに微笑みながら、カップを見つめる青年を眺めていた。湯気に隠された青年の顔は、回転窓から差す斜陽が逆光となって、マスターからはよく見えなかった。
夏から秋への変わり目の、伸び始めた陽光は、喫茶店に柔らかな朱け色を流していた。ジュークボックスから奏でられるスローテンポの音楽。頼りなくゆらめく湯気と、遠慮がちなコーヒーの香り……
◆
マスターはフォークとスプーンを使って、スパゲティを食べるようにして焼きそばを平らげた。マスターは大口なわけでも下品な食べ方をするわけでもなかったが、どういうわけか食べるのが異様に速かった。
僕はようやく溜まったコーヒーをカップに淹れ、マスターの分も用意して、何故だか厨房にあるテーブルに置いた。マスターはチェリーを口に入れ、口の中でその蔓を蝶々結びにした。
僕はコーヒーを飲みながらマスターを見ていた。湯気の向こうで得意げにチェリーの蔓を掲げている人物を、限りない敬意を込めて、苦笑しながら。
________closed.