宵闇ソリチュード
果たして人間というのは、どういう存在なんだろうね?
僕は思うことがあるんだ。現代の人間による行為というものの中心に、本当は人間は必要無いんじゃないだろうか。例えば旅行というものがある。特にツアー旅行だ。半ば以上自動化され、機械化された行程に、人間は計画の一部として組み込まれる。中心は企画であり、計画だ。人間では断じてない。この点はどうだろうか?
……まあそんなことは別にいいのさ。
話は変わるけれど、今の世の中は批判されることがよくあるね。また例を挙げさせてもらうと、個人の尊重と制服の問題だ。制服は個人を埋没させると主張する人がいるけれど、それは実は間違いだ。制服というのは個人個人を一律化し、その格差を均すものじゃあない。あれはそれを着る人がどういった職業の、あるいは身分の人間なのかを視覚的に容易に認識できるようにするための、一種の目印なのさ。それを規律としているのは、社会的な混乱を避けるためだ。だからこれをもって個性の消失と叫ぶのは、どだい無理な話なんだよ。
さて、ここで問題となるのは、そう考える人自身が誤りなのか、そんな考えを抱いてしまう人を生み出した社会が誤っているのかということだ。君はどう思う?
ん? 難しいかい? いや、これはそれほど難題というものではないよ。
答えは簡単だ。ただし、それは答える人によって変わる。つまりどちらも正解で、どちらも不正解なんだよ。矛盾してる? いや、これはね、世の中に絶対的に正しい考えなんて無いということを示しているんだ。道徳というものがあるけれど、あれだって人の立場によって随分と方向性の変わるものなんだよ。
君はどんな考えをしているんだろうね? そしてそれは、人間の価値を作り出すことができるものかな?
◆
蝉の声が聞こえる。
夜。この辺りはなだらかな高原になっているので、熱帯夜というものがあまり無い。今夜も、涼しい夜だ。叶屋は神社の裏の、縁側に腰掛けている。他には誰もいない。彼女と、堂と、蝉の他には。
だが、彼女は感じていた。もう一人、自分とよく似た少年を。自分と同じように愚かで、そしてひどく孤独だった少年。
膝から下を、前後に揺らす。下駄が敷石に当たって、からんと音を立てる。足が地面につくくらいには、彼女は成長していた。
(あの頃は届かなかったのに――)
綻びた浴衣の裾を気にするでもなく、彼女は追憶に耽る。境内で開かれている縁日のざわめきが、どこか遠くに聞こえる。蝉の声は止んでいた。
帯に差していた団扇を抜き、緩慢にあおぐ。空を見上げると、星が無数に瞬いていた。遥かな時を経て届く、冷たい光。
(どうしてんのかな、あいつ)
夏の空気の香りは好きだった。わずかな湿気と、草の香りが混ざった空気。彼はおどけて、よく言ったものだ。「夏は、君によく似合うね」。そんな歯の浮くような台詞が、しっくりくるようなやつだった。どこか達観したような物腰で、彼はいつも穏やかだった。
夏が来る度、彼はここにやって来た。毎年、夏休みは母親の実家で過ごすらしい。彼はこの神社の神主の孫にあたるのだと言った。叶屋はここによく遊びに来ていたので、何度か顔を合わせるうちに話すようになったのは、むしろ自然なことだったかもしれない。
彼は、ここの風景が好きだと言った。そうして微笑みながら、今も叶屋の前に広がる林を見つめていた。
叶屋は、座っている場所の右側の板を触ってみた。
(ここに、いっつも座ってたよな)
そこに彼のぬくもりは無かった。
彼女と彼の関係は、何だったのだろう? 叶屋は何度か考えたことがある。親友? 恋人? 違う。そんなんじゃない。
孤独だった。二人とも、明らかに周囲とは異なった存在だったのだ。叶屋には、親しい友人はいない。同世代の、というか世間の人間たちが、ひどく下らないものに思えて仕方無かった。自分自身さえも。家族や親族すら、彼女にとっては居ても居なくてもいい存在でしかなかった。人に価値を見出すことが出来なかった。愚かだった。
彼はまた違う理由で孤独に見えた。見えない真綿に締められるように、いつも何かに足掻いているようだった。世界の欠点を全て見つけてしまったような、完全な存在がありえないことを悟ってしまったような、しかしそれでもまだ、何かを必死で求めているような。そんな永遠に空回りする努力を続けているように、彼女には思えた。
「僕らの未来って、一体どんなものなんだろうね?」
曖昧な話題を、よく振ってくるやつだった。彼女はそんな彼と話すのが好きだった。いつの間にか、彼女は人にある価値を発見していた。していったと言ってもいい。
「無力感は強い。僕にはどうにも太刀打ちできないな」
彼が口にした言葉が、次々に甦ってくる。彼はここに居た。自分の横に座って、林を眺めていたのだ。夏と一緒に来て、夏と一緒に去っていく。彼は叶屋にとって、夏そのものだった。
(……なんでいないんだよ)
3年間、彼はこの神社に来ていない。その間に、彼女はすっかり大人びてしまっていた。もう、あの頃の彼女ではありえない。
夜気が、吹き抜けていった。彼女の髪と林の雑草が、それになびく。夏の香りがした。
彼が来なくなって、夏は途端に空虚になった。彼女は以前の、人に意味を見つけられない人間に戻ってしまっていた。大切なものを失った気分だった。自分の胸に大きな風穴が開いている――そんな錯覚を、彼女は時々覚える。
茂みに光が灯った。ちらほらと見え、舞うそれは蛍の冷光だろう。求愛行為に過ぎないそれが、人間世界の営みのいずれよりも、価値あるものに彼女には思えた。
膝を引き寄せ、腕に抱えて額を載せる。目を閉じると、僅かに流れ、浮いていた音が消え去った。彼女の内側にある幾人もの彼女を、叶屋は捜した。その肩に蛍が一匹とまったが、彼女は気付かない。
一瞬だったのか、一刻だったのか――自覚するのは難しかったが、それほど時間は経っていなかったろう。
「やあ、また何か悩んだいるのかい?」
突然聴こえた声に、叶屋は慌てて顔を上げた。蛍が飛び立つ。
「一人で悩みつづけるのは良いとは言えないね。まず自分で考えることは大切だけれど、それで駄目なら誰かに相談するということをお勧めするよ」
声のする方へ顔を向けると、そこには見覚えのある少年が、以前よりも随分背を伸ばし、以前と少しも変わらない佇まいで、ぽつんと立っていた。
「凛」
彼女の名を呼ぶ声がする。
「へえ。よく似合ってるよ、その浴衣」
叶屋は立ち上がった。腰に両手をあて、上半身を少し屈める。
「遅かったね?」
「いやあ」
少年は、照れ隠しのつもりか誤魔化しのつもりか、後頭部に手をやって斜め下を見つめてみせた。
「ちょっとやんごとなき事情があってね。学力の低下は、高校ではひどく問題視されるようだ」
「バカ」
彼は肩をかすかにすくめ、
「手厳しいね」
と言いながら苦笑した。叶屋もくすりと笑った。
――蝉の声が聞こえる。
______closed.