「柳の木は女のひとに似てるって、昔誰かが言ったそうだよ」
 柳の木の下で、彼は顔を斜め上へ向けてそう言った。私には彼の顔は見えないけれど、声の方向でそうだと知れた。私は小さく相槌を打って、唇を鎖した。息を吸った。石鹸の匂い。それに刺激されたわけではないが、私はいっそう強く両手に力を込めた。彼の手が、私の後頭部に触れる。掌全体で、私の髪を梳いている。ドライヤーを使わなかったので、彼の手が冷たくなってしまわないかが心配だった。
「柳って、綺麗だけどさ」
 彼が続ける。今度は相槌を打たず、私は少しだけ頷いた。小さく頭を動かしただけだったが、それがしっかりと彼に伝わっていることは確信していた。浴衣は、密着したものの動きを感じさせないほど、厚手ではない。
「こんな枯淡の存在と女のひとを似せて見るなんて、失礼な話だよね」
 その口調がいかにも腹を立てている風だったのが可笑しくて、私は笑った。彼の視線が私に落ちた。それを感じて、私はまた、彼に頭を押し付けた。彼の浴衣の一部を握っていた両手を開いた。私の掌と彼の胸で、温度の交換。
「こんなに」
 私を包んでいた彼の腕が――右腕が上がり、私の頬に触れた。私はゆっくりと顔を上げた。知らぬ間に、両目から涙が溢れていた。彼は優しい瞳で私を見つめている。声も出せず、私は彼のその瞳に吸い込まれそうだった。優しい瞳、優しい声、優しい表情。『男らしさ』なんて微塵も感じさせないけれど、そんなものは必要ない。そんなもの、彼の優しさに比べればほとんど価値を持たない。優しい、彼。
 私は彼にぴったりくっついて、彼の左腕は私の身体を抱いていて、彼の右手は私の頬に触れていて、私は彼を見つめていて、彼は私を見つめている。私の心臓はその状況に対応しきれず、打つのを速めたり遅めたりしている。
「こんなに綺麗なのにね」
 彼の右手が頬から髪に移った。5本の指が髪の間に差し込まれ、まだ水気を帯びている私の髪を、転がすようにしていじる。彼に髪を触られていると、私はどういうわけか安心する。彼は私の髪を触りながら、私を引き寄せた。驚いて声を上げると、彼は微笑み、また両腕で私を包むようにして、きつく抱き締めた。私は顔を上げたままだったので為す術もなく、ただ彼の、こういう時だけは感じさせられる腕の力のままに、抱き締められる。苦しいほどに。彼の唇が、私の首すじに触れる。
 私が苦しいことを告げると、彼はそっと腕の力を緩め、ごめんねと謝った。謝罪の意味なんてない、特別なふたりだけの「ごめんね」。私は首を横に振った。彼はまた微笑んだ。
 私はもう、彼の顔を見ていることができなかった。これ以上見つめていると、心臓が爆発してしまう。しかし顔を逸らそうとした私を、彼の声が引き止めた。彼が私の名前を呼んだ。それは魔法のように、私から動く力を奪い去った。
 私は彼を見つめ、彼は私を見つめた。見つめる瞳が、少しずつ近づいてくる。ぶつかる、と思って、私は目を閉じた。嘘。そんなことは思っていない。ただ彼を感じていただけ。彼との縮まっていく距離を、感じていただけ。
 少しずつ、私たちは近づいて、そして触れ合った唇は、ほのかに石鹸の香りがした。

 そこは宿の一室だった。全国的にも有名な温泉街の、数ある宿のひとつ。料金は高くは無いし、料理はなかなかだし、なにより女将さんや従業員の接し方が良い。
 部屋の中を見回してみた。四人家族が囲んで丁度いい大きさの卓。その上には大きめの盆。その盆に載せられているのは、湯のみが4客に、陶製の灰皿、茶菓子、魔法瓶式のポット、緑茶のティーバッグ。壁際にテレビと金庫。天井の近くにエアコン。外の景色を見渡せる窓には障子が敷かれている。窓のそばには2脚の椅子と、小さめの円卓。部屋の隅には、ふたり分の旅行鞄。
 窓の方へ顔を向けた。薄い飴色の朝陽が射し込んでいる。電車と車の音。しばらくすれば、それらに混じって下駄の音が聞こえてくるはずだ。昨日見かけただけでも、様々な人々がこの温泉街を訪れている。家族連れ、若いカップル、熟年のカップル、学生らしいグループ、町内会かなにかの旅行で来たらしき中年の集団。たくさんのひとが土産物屋を物色し、幸福そうに下駄を鳴らして歩いていた。
 ――と、そんなことを思い起こしてみても、現実は変わらない。
 そう、現実。今、私の目の前にある現実。すなわちぐちゃぐちゃになったふたり分の布団と、そのぐちゃぐちゃになった布団とほとんど一体化したようにして眠っている、彼。私は長い長い嘆息のあと、搾り出すように言った。
「夢オチかよ……」
 私は彼の顔があるところ――枕があった場所とは程遠い――まで這っていき、彼の寝顔を覗き込んだ。とても20代の半ばを過ぎた男の顔とは思えない、あどけない寝顔。
「そりゃそうよね。この人があんな気障なことできるわけないし、私があんな乙女ちっくな振る舞いをするわけないわ」
 残念なような、ほっとしたような。とはいえあれが現実に起こったことだとしたら、私は恥ずかしくてこれ以上1秒でもこの部屋にいられないだろう。思い出すだけで、赤面するのがわかる。
 私は彼から離れ、さっと寝巻き浴衣を脱ぎ捨てて着替えを済ませた。顔を洗い、用を足し、冷蔵庫に冷やしてあった缶コーヒーを飲んだ。自分の使った布団を整え、旅行鞄を整理し、携帯電話を充電コードから外した。いつもの休日のように、自分の支度を全て済ませてから、彼を叩き起こすのだ。
「ほら、起きて! とっとと行くわよ!」
 掛け布団を引き剥がし、頬を軽く打ってみても目覚めない。いつものことだ。しかし今日は、さっさと起きてもらわないと困る。なぜなら、今日はあの、昨日歩ききれなかった道を散歩するのだから。柳の木が並ぶ、川沿いの美しい道。彼は昨夜、あの道を『昔話の世界に繋がっている道』と呼んだ。「ついさっき、かぐや姫を連れた月の使者たちがここを通ったんだよ」「僕らも明日、月まで歩こう」
 なかなか目覚めてくれない彼のそばで三角座りをして、私は膝に頬を載せた。むにゃむにゃとなにか唸って、彼がまた寝返りを打った。

________closed.